第四章 予言者のはじまり
東の橋は、三日後には落ちなかった。
職人たちが亀裂を見つけ、石を外し、凍って膨らんだ土を掘り返した。
橋の内側は、外から見えるよりもずっと傷んでいた。
「あと数日遅れていたら、間違いなく崩れていた」
そう言ったのは、村一番の石工だった。
彼の言葉は、そのまま村中を駆け巡った。
ケルが橋を救った。
いや、ケルが未来を見た。
いやいや、古の予言書がついに開かれた。
噂は、日が沈む頃には伝説になりかけていた。
パン屋のマルクは、ケルを見るたびに深々と頭を下げた。
「お前がいなければ、俺も馬も穀物も谷底だった」
羊飼いの少年は、興奮した顔で彼に聞いた。
「ねえケル、僕の未来も見える? 僕、いつか大きな牧場を持てる?」
井戸端の女たちは、彼が通ると急に声を潜めた。
「やっぱり、賢者様の血筋ね」
「選ばれし子だわ」
「でも、未来を見るなんて……怖くないのかしら」
ケルは、そうした声を聞くたびに胸の奥がざわついた。
誇らしさがなかったわけではない。
自分にしかできないことがある。
自分が見たことで、誰かの命が救われた。
それは、確かに甘い実感だった。
けれど同時に、背中に冷たい手を置かれているような感覚もあった。
村人たちの目が変わった。
昨日まで、ケルはただの夢見がちな少年だった。
丘で詩を書き、空を見上げ、時々ぼんやりしている、少し変わった少年。
けれど今、村人たちは彼を見る時、何かを期待していた。
次の災いも見つけてくれるのではないか。
自分たちを守ってくれるのではないか。
村を救う、伝説の選ばれし者なのではないか。
ケルはその視線を、重い外套のように肩へ乗せて歩いた。
祖父は、彼にしばらく予言書を開かせなかった。
「一つ変えたなら、その結果を見届けなさい」
そう言って、台座の部屋の鍵を肌身離さず持ち歩いた。
「橋は救った」
ケルは何度も言った。
「次を見ないと」
「次は今の中にある」
「でも、大災害は近づいてるかもしれない」
「焦りは、予言書の好物だ」
「本が生きてるみたいに言わないでよ」
祖父は、静かに彼を見た。
「生きていないと思うか?」
ケルは答えられなかった。
あの本を開いた時の感触を覚えていた。
黒い革の奥で脈打つ、眠った心臓のような気配。
ページがめくれるたび、自分の中のどこかが引っ張られる感覚。
祖父の言葉は、たぶん正しかった。
けれど正しいからといって、安心できるわけではない。
ケルは夜になると眠れなくなった。
目を閉じるたび、光景が浮かぶ。
崩れる村。
青白い光。
血に濡れた石畳。
赤いリボン。
そして、エリアの静かな顔。
あなたは、未来ばかり見ていた。
彼女の声が、眠りのふちで何度も響いた。
ケルはそのたびに跳ね起き、机の上の手帳を開いた。
予言を書き留めるためではない。
詩を書くためでもない。
見たものを忘れないためだった。
霜月三日、東の橋、凍裂。
橋は補強済み。
未来、変更。
彼はそう記した。
その下に、新しく一行を書こうとして、手が止まった。
エリアには、まだ話せていない。
インクのしずくが、紙に落ちた。
それは小さな黒い染みになり、少しずつ広がっていった。
エリアとは、数日まともに話せなかった。
会えなかったわけではない。
村は小さい。
井戸端でも、市場でも、教会の前でも、二人は何度も顔を合わせた。
けれどエリアは、以前のように簡単に隣へ来なかった。
ケルが近づこうとすると、村人が先に声をかけてくる。
「ケル、うちの畑は今年大丈夫か?」
「息子が熱を出しているんだ。予言書に何か出ていないか?」
「西の森で狼を見た者がいる。災いの兆しじゃないか?」
最初は、誰もが遠慮がちだった。
けれど橋の一件から、村人たちの頼みは少しずつ増えていった。
小さな不安。
小さな恐れ。
小さな未来。
それらが全部、ケルの前に積まれていく。
彼は本を開いていないのに、まるで村人たちは彼の額に予言の文字が浮かんでいるとでも思っているようだった。
「僕には、何でも見えるわけじゃない」
そう言うと、相手は必ず少し落胆した顔をする。
その顔を見るのが苦しかった。
だからケルは、いつしか曖昧に笑うようになった。
「気をつけておきます」
「祖父に聞いてみます」
「何か見えたら、知らせます」
その言葉を聞くと、人々は安心した顔をする。
ケルはそれでまた少し、自分が村を支えているような気になる。
その一方で、エリアだけはそんな顔をしなかった。
彼女は遠くから、ただケルを見ていた。
期待でも、崇拝でも、恐れでもない。
何かを失くしたものを見る目だった。
ある日の夕方、ケルは教会の裏手でエリアを見つけた。
彼女は石段に座り、赤いリボンを結び直していた。
夕陽が教会の壁を淡い薔薇色に染めている。
鐘楼の影が長く伸び、石畳の上に黒い十字架のような形を作っていた。
ケルは足を止めた。
エリアも気づいた。
二人はしばらく黙っていた。
先に口を開いたのは、エリアだった。
「橋、落ちなくてよかったね」
「うん」
「マルクさん、すごく感謝してた」
「うん」
「村のみんなも」
「……うん」
会話はそこで途切れた。
こんなに言葉が遠かったことがあっただろうか。
昔は、何も話さなくても平気だった。
沈黙すら、二人の間ではやわらかかった。
でも今の沈黙は、まるで薄い硝子の壁だった。
向こうにいるのは見えるのに、触れられない。
ケルは石段の下に立ったまま言った。
「怒ってる?」
エリアは少しだけ笑った。
「それ、前も聞いた」
「だって」
「怒ってるよ」
「やっぱり」
「でも、怒ってるだけじゃない」
ケルは彼女を見た。
エリアは手元のリボンを見つめていた。
「村のみんな、あなたを見る目が変わった」
「僕も、そう思う」
「ケルは?」
「え?」
「あなたは、自分を見る目が変わった?」
ケルは返事に詰まった。
エリアは顔を上げた。
「自分のこと、選ばれた人だと思い始めてる?」
「そんなこと……」
否定しようとして、声が弱くなった。
まったく思っていないと言えば、嘘になる。
橋を救えた。
村人が感謝した。
祖父も、自分には読めると言った。
選ばれたのではない、と女王は言った。
あなたが望んだから扉が開いたのだと。
それでも、心のどこかで思ってしまう。
自分には役目があるのではないか。
自分だけが見える未来があるのではないか。
「わからない」
ケルは正直に言った。
エリアは小さくうなずいた。
「そっか」
「でも、調子に乗ってるつもりはない」
「うん」
「本当に、村を守りたいだけなんだ」
「私も、それはわかってる」
「じゃあ」
「でも」
エリアはケルの言葉を遮った。
「守りたいって気持ちが、いつも正しいとは限らないよ」
ケルは眉を寄せた。
「どういう意味?」
「あなたは、私に何も話してくれない」
「それは……」
「怖がらせたくないから?」
ケルは黙った。
エリアは苦笑した。
「やっぱり」
「君を巻き込みたくないんだ」
「もう巻き込まれてる」
「違う。まだ」
「違わない」
エリアの声が少し強くなった。
「あなたが私の未来を見たなら、私はもうそこにいる。あなたが何も言わなくても、私はあなたの中の予言に閉じ込められてる」
ケルは息を呑んだ。
その言葉は、予想していなかった。
エリアは続けた。
「私のことを守りたいなら、私から私の未来を隠さないで」
「でも、知ったら怖くなる」
「怖くなるよ」
「だったら」
「でも、知らないまま遠ざけられる方がもっと怖い」
ケルは石段を見つめた。
エリアの言葉はいつも、正しい場所を突いてくる。
けれど今回は、受け入れるにはあまりに痛かった。
彼女に見た未来を話す。
泣いていた。
いや、泣いていなかった。
もっと悪い。
諦めた顔をしていた。
あなたは、未来ばかり見ていた。
そんなことを、どうやって伝えればいい。
「ごめん」
ケルは言った。
「今は、まだ言えない」
エリアは目を閉じた。
わずかな沈黙。
それから、静かに立ち上がった。
「わかった」
「エリア」
「わかってないけど、わかったことにする」
「待って」
「待ってるよ」
彼女はケルの横を通り過ぎた。
「ずっと待ってる。あなたがちゃんと、私の方を見るのを」
ケルは振り返った。
エリアは立ち止まらなかった。
その背中が、鐘楼の影を越えて夕暮れの中へ消えていく。
ケルはその場に立ち尽くした。
今、追いかければよかった。
わかっていた。
けれど足が動かない。
なぜなら、その瞬間、教会の鐘が鳴ったからだった。
からん。
からん。
いつもの夕刻の鐘。
だがその音の奥に、あの歪んだ鐘の音が重なった。
未来の鐘。
壊れる村の鐘。
ケルは顔を上げた。
鐘楼が、夕陽の中で黒く浮かんでいる。
その先端に、青白い光が一瞬だけ走ったように見えた。
幻か。
予兆か。
ケルは走り出した。
エリアを追うのではなく、祖父の家へ。
「開けて」
祖父は暖炉の前で薬草を乾かしていた。
ケルが飛び込んでくると、顔をしかめた。
「またか」
「鐘楼に光が見えた」
「光?」
「青白い光。未来で見たのと同じだった」
祖父の表情が硬くなる。
「確かか」
「わからない。でも、見えた」
「見えたものすべてが予言とは限らん」
「でも、見逃したら?」
ケルは祖父に詰め寄った。
「もしそれが大災害の兆しなら? もし今見なかったせいで、村が滅びたら?」
祖父は何も言わなかった。
ケルは畳みかける。
「橋の時だって、見たから救えた。今度も同じかもしれない」
「同じではない」
「どうして」
「橋は小さな未来だった。根が浅い。人の手で補強できる」
「大きな未来は無理だって言うの?」
「大きな未来ほど、多くの人の選択が絡み合っている。一本の糸を引けば、別の糸が締まる。焦ってほどこうとすれば、結び目は余計に固くなる」
「だから何もしないの?」
「だからこそ、慎重に見る」
「慎重にしている時間がないかもしれない!」
ケルの声が部屋に響いた。