「でも、僕は君と歩きたい。怖い時は怖いと言う。間違えたら謝る。君が怒ったら逃げずに聞く。未来が見えなくても、君と一緒に選び続けたい」
彼は手を差し出した。
「僕と、結婚してください」
エリアはしばらく彼を見つめていた。
長い沈黙。
ケルは、心臓が破裂しそうだった。
やっぱり早すぎたかもしれない。
こんな時に言うことではなかったかもしれない。
もっと花を用意して、ちゃんとした場所で、ちゃんとした言葉で――
「また未来に逃げてる」
エリアが言った。
「え?」
「今、断られる未来を想像してたでしょ」
ケルは言葉に詰まった。
「顔に出てた?」
「すごく」
エリアは立ち上がった。
そして、彼の手を取った。
「はい」
ケルは瞬きをした。
「はい?」
「結婚します」
一瞬、世界の音が消えた。
鐘も、村人の声も、風も。
それから、全部が一気に戻ってきた。
「本当に?」
「未来が見えないから、何度も聞かないで」
エリアは少し照れたように睨んだ。
「はい。私は、あなたと結婚します」
ケルは息を吸った。
けれど、何も言えなかった。
喉の奥で言葉が詰まり、代わりに涙が出そうになる。
エリアは彼の顔を見て、少し慌てた。
「泣くの?」
「泣いてない」
「泣きそう」
「泣いてない」
「未来が見えなくても、今は見えるよ」
ケルは笑ってしまった。
そして、彼女を抱きしめた。
今度は、守るためではなかった。
閉じ込めるためでもない。
ただ、ここにいることを確かめるためだった。
エリアは少しだけ背伸びして、ケルの肩に額を預けた。
「ケル」
「何?」
「もしまた未来ばかり見たら、怒るから」
「うん」
「ちゃんと私を見て」
「うん」
「それから、怖くなったら言って」
「言う」
「一人で行かないで」
「行かない」
エリアは少し黙ったあと、小さく言った。
「約束」
ケルは、彼女の手を取った。
小指を絡める。
子どものころから何度もした約束。
けれど今度の約束は、未来を固定するものではなかった。
明日も選び続けるための、小さな灯火だった。
「約束」
二人の小指が離れた瞬間、風が吹いた。
丘の方からの風だった。
銀の森の匂いが、ほんの少しだけ混ざっていた。
その夜、ロゼリアでは小さな火がいくつも灯った。
壊れた家の前。
広場の中央。
教会の広間。
水車小屋の脇。
人々は集まり、温かいスープを分け合った。
完全な祝宴ではない。
失ったものを数えれば、喜んでばかりはいられなかった。
それでも、生きていることを確かめるために、人々は火を囲んだ。
司祭が祈りを捧げた。
祖父は静かに座り、遠くの空を見ていた。
ケルはその隣に腰を下ろした。
しばらく二人は黙っていた。
やがて祖父が言った。
「求婚したそうだな」
ケルはむせた。
「誰から聞いたの」
「村は狭い」
「早すぎる」
「そうだな」
祖父はあっさり言った。
ケルは肩を落とした。
「やっぱり?」
祖父は少し笑った。
「だが、悪くはない」
ケルは祖父を見た。
祖父は火を見つめていた。
「未来の準備ができたから結婚する者など、おらん」
「そうなの?」
「皆、未完成のまま誰かの手を取る」
ケルはその言葉を胸の中で繰り返した。
未完成のまま、手を取る。
祖父は懐から何かを取り出した。
古い指輪だった。
銀でできた簡素な指輪。
表面には、小さな星と蔓の模様が彫られている。
「これは?」
「お前の母のものだ」
ケルは息を呑んだ。
「母さんの?」
「ライネルが贈ったものだ。お前の母が亡くなる前、私に預けた。いつか、ケルが本当に誰かと未来を歩こうとするなら渡してほしい、と」
ケルは指輪を受け取った。
思ったより軽かった。
けれど、その小さな輪の中に、いくつもの時間が詰まっている気がした。
父の恐れ。
母の祈り。
祖父の後悔。
自分の未来。
「僕が持ってていいの」
「そのために残されたものだ」
ケルは指輪を握りしめた。
胸が熱くなった。
「母さんは、父さんのことを恨んでたのかな」
祖父はしばらく黙った。
「恨んでいなかったとは言えない」
ケルは目を伏せた。
「だが、愛していなかったとも言えない」
祖父は火を見つめたまま続けた。
「人の心は、予言書より複雑だ。怒りながら愛することもある。許せないまま祈ることもある。別れたあとも、相手の無事を願うこともある」
ケルは指輪を見つめた。
未来を一つに固定しようとした父は、たぶん愛を単純にしたかったのだ。
失うか、守るか。
成功か、失敗か。
幸福か、不幸か。
でも本当は、愛はもっと複雑で、曖昧で、面倒で、だからこそ生きている。
「僕、怖いよ」
ケルは小さく言った。
祖父はうなずいた。
「それでいい」
父と同じ言葉だった。
ケルは火を見つめた。
「怖くても、手を離すな」
祖父は何も言わなかった。
ただ、ケルの肩に手を置いた。
その手は、父の手ではなかった。
けれど確かに、家族の手だった。
深夜。
村の火が少しずつ小さくなり、人々が仮の寝床へ戻り始めたころ、ケルは一人で祖父の家へ向かった。
エリアには、すぐ戻ると伝えた。
彼女は少しだけ眉を上げたが、今度は止めなかった。
「一人で行くの?」
「未来年代記を閉じに行く」
「戻ってくる?」
「戻ってくる」
「約束」
「約束」
祖父の家の奥。
護符の貼られた狭い部屋。
未来年代記は、台座の上で静かに閉じられていた。
今までのような脈打つ気配は薄い。
まるで長い夢を終えた獣のようだった。
ケルは台座の前に立った。
「君は、悪い本だったのかな」
本は答えない。
「それとも、僕が怖がって開いたから、怖いものを見せただけなのかな」
沈黙。
ケルはそっと表紙に触れた。
冷たい。
けれど、もう以前ほど恐ろしくはなかった。
本がわずかに開いた。
ページがひとりでにめくられる。
ケルは身構えた。
だが、光景は流れ込んでこなかった。
最後のページで、動きが止まる。
そこには、何も書かれていなかった。
完全な空白。
ケルは、その白さを見つめた。
以前なら、その空白が怖かっただろう。
何も決まっていない。
何も保証されていない。
どこへ落ちるかわからない。
けれど今は、その白さが少し眩しかった。
ケルは自分の手帳を取り出した。
未来年代記の横に置く。
古い予言書と、少年の小さな手帳。
どちらも、未完成だった。
ケルは羽ペンを取った。
未来年代記に書くことはできない。
たぶん、書いてはいけない。
だから彼は、自分の手帳に書いた。
古い予言は、ただの物語。
我らの手で、未来を描け。
少し考えて、最後にもう一行加えた。
運命は未完成、愛が創る。
その瞬間、未来年代記の空白のページに、かすかな金色の光が浮かんだ。
文字ではない。
絵でもない。
ただ、小さな灯火のような光。
それはしばらく揺れていたが、やがて静かに消えた。
ケルは本を閉じた。
「さよなら」
そして少し考え、言い直した。
「また必要な時まで」
彼は部屋を出た。
扉に鍵をかける。
鍵は、祖父に返すつもりだった。
けれどその前に、もう一度だけ振り返った。
未来は、もう彼を呼んでいなかった。
少なくとも今夜は。
ケルは扉を閉じた。