小説Future Chronicle

―未完の予言詩―

未来がすべて記された年代記の世界で、僕は少女エリアと出会った。決められた結末を書き換えようとした瞬間、僕自身の未来にも知らない代償が刻まれはじめる。誰かに決められた明日ではなく、大切な人と選び取る“これから”のための物語。

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「でも、僕は君と歩きたい。怖い時は怖いと言う。間違えたら謝る。君が怒ったら逃げずに聞く。未来が見えなくても、君と一緒に選び続けたい」

彼は手を差し出した。

「僕と、結婚してください」

エリアはしばらく彼を見つめていた。

長い沈黙。

ケルは、心臓が破裂しそうだった。

やっぱり早すぎたかもしれない。
こんな時に言うことではなかったかもしれない。
もっと花を用意して、ちゃんとした場所で、ちゃんとした言葉で――

「また未来に逃げてる」

エリアが言った。

「え?」

「今、断られる未来を想像してたでしょ」

ケルは言葉に詰まった。

「顔に出てた?」

「すごく」

エリアは立ち上がった。

そして、彼の手を取った。

「はい」

ケルは瞬きをした。

「はい?」

「結婚します」

一瞬、世界の音が消えた。

鐘も、村人の声も、風も。

それから、全部が一気に戻ってきた。

「本当に?」

「未来が見えないから、何度も聞かないで」

エリアは少し照れたように睨んだ。

「はい。私は、あなたと結婚します」

ケルは息を吸った。

けれど、何も言えなかった。

喉の奥で言葉が詰まり、代わりに涙が出そうになる。

エリアは彼の顔を見て、少し慌てた。

「泣くの?」

「泣いてない」

「泣きそう」

「泣いてない」

「未来が見えなくても、今は見えるよ」

ケルは笑ってしまった。

そして、彼女を抱きしめた。

今度は、守るためではなかった。

閉じ込めるためでもない。

ただ、ここにいることを確かめるためだった。

エリアは少しだけ背伸びして、ケルの肩に額を預けた。

「ケル」

「何?」

「もしまた未来ばかり見たら、怒るから」

「うん」

「ちゃんと私を見て」

「うん」

「それから、怖くなったら言って」

「言う」

「一人で行かないで」

「行かない」

エリアは少し黙ったあと、小さく言った。

「約束」

ケルは、彼女の手を取った。

小指を絡める。

子どものころから何度もした約束。
けれど今度の約束は、未来を固定するものではなかった。

明日も選び続けるための、小さな灯火だった。

「約束」

二人の小指が離れた瞬間、風が吹いた。

丘の方からの風だった。

銀の森の匂いが、ほんの少しだけ混ざっていた。

その夜、ロゼリアでは小さな火がいくつも灯った。

壊れた家の前。
広場の中央。
教会の広間。
水車小屋の脇。

人々は集まり、温かいスープを分け合った。

完全な祝宴ではない。
失ったものを数えれば、喜んでばかりはいられなかった。

それでも、生きていることを確かめるために、人々は火を囲んだ。

司祭が祈りを捧げた。

祖父は静かに座り、遠くの空を見ていた。

ケルはその隣に腰を下ろした。

しばらく二人は黙っていた。

やがて祖父が言った。

「求婚したそうだな」

ケルはむせた。

「誰から聞いたの」

「村は狭い」

「早すぎる」

「そうだな」

祖父はあっさり言った。

ケルは肩を落とした。

「やっぱり?」

祖父は少し笑った。

「だが、悪くはない」

ケルは祖父を見た。

祖父は火を見つめていた。

「未来の準備ができたから結婚する者など、おらん」

「そうなの?」

「皆、未完成のまま誰かの手を取る」

ケルはその言葉を胸の中で繰り返した。

未完成のまま、手を取る。

祖父は懐から何かを取り出した。

古い指輪だった。

銀でできた簡素な指輪。
表面には、小さな星と蔓の模様が彫られている。

「これは?」

「お前の母のものだ」

ケルは息を呑んだ。

「母さんの?」

「ライネルが贈ったものだ。お前の母が亡くなる前、私に預けた。いつか、ケルが本当に誰かと未来を歩こうとするなら渡してほしい、と」

ケルは指輪を受け取った。

思ったより軽かった。

けれど、その小さな輪の中に、いくつもの時間が詰まっている気がした。

父の恐れ。
母の祈り。
祖父の後悔。
自分の未来。

「僕が持ってていいの」

「そのために残されたものだ」

ケルは指輪を握りしめた。

胸が熱くなった。

「母さんは、父さんのことを恨んでたのかな」

祖父はしばらく黙った。

「恨んでいなかったとは言えない」

ケルは目を伏せた。

「だが、愛していなかったとも言えない」

祖父は火を見つめたまま続けた。

「人の心は、予言書より複雑だ。怒りながら愛することもある。許せないまま祈ることもある。別れたあとも、相手の無事を願うこともある」

ケルは指輪を見つめた。

未来を一つに固定しようとした父は、たぶん愛を単純にしたかったのだ。

失うか、守るか。
成功か、失敗か。
幸福か、不幸か。

でも本当は、愛はもっと複雑で、曖昧で、面倒で、だからこそ生きている。

「僕、怖いよ」

ケルは小さく言った。

祖父はうなずいた。

「それでいい」

父と同じ言葉だった。

ケルは火を見つめた。

「怖くても、手を離すな」

祖父は何も言わなかった。

ただ、ケルの肩に手を置いた。

その手は、父の手ではなかった。

けれど確かに、家族の手だった。

深夜。

村の火が少しずつ小さくなり、人々が仮の寝床へ戻り始めたころ、ケルは一人で祖父の家へ向かった。

エリアには、すぐ戻ると伝えた。

彼女は少しだけ眉を上げたが、今度は止めなかった。

「一人で行くの?」

「未来年代記を閉じに行く」

「戻ってくる?」

「戻ってくる」

「約束」

「約束」

祖父の家の奥。

護符の貼られた狭い部屋。

未来年代記は、台座の上で静かに閉じられていた。

今までのような脈打つ気配は薄い。

まるで長い夢を終えた獣のようだった。

ケルは台座の前に立った。

「君は、悪い本だったのかな」

本は答えない。

「それとも、僕が怖がって開いたから、怖いものを見せただけなのかな」

沈黙。

ケルはそっと表紙に触れた。

冷たい。

けれど、もう以前ほど恐ろしくはなかった。

本がわずかに開いた。

ページがひとりでにめくられる。

ケルは身構えた。

だが、光景は流れ込んでこなかった。

最後のページで、動きが止まる。

そこには、何も書かれていなかった。

完全な空白。

ケルは、その白さを見つめた。

以前なら、その空白が怖かっただろう。

何も決まっていない。
何も保証されていない。
どこへ落ちるかわからない。

けれど今は、その白さが少し眩しかった。

ケルは自分の手帳を取り出した。

未来年代記の横に置く。

古い予言書と、少年の小さな手帳。

どちらも、未完成だった。

ケルは羽ペンを取った。

未来年代記に書くことはできない。
たぶん、書いてはいけない。

だから彼は、自分の手帳に書いた。

古い予言は、ただの物語。
我らの手で、未来を描け。

少し考えて、最後にもう一行加えた。

運命は未完成、愛が創る。

その瞬間、未来年代記の空白のページに、かすかな金色の光が浮かんだ。

文字ではない。

絵でもない。

ただ、小さな灯火のような光。

それはしばらく揺れていたが、やがて静かに消えた。

ケルは本を閉じた。

「さよなら」

そして少し考え、言い直した。

「また必要な時まで」

彼は部屋を出た。

扉に鍵をかける。

鍵は、祖父に返すつもりだった。

けれどその前に、もう一度だけ振り返った。

未来は、もう彼を呼んでいなかった。

少なくとも今夜は。

ケルは扉を閉じた。

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