自分で言いながら、胸が痛かった。
認めるのは怖い。
自分が万能ではないこと。
自分の力が人を救うだけでなく、傷つけるかもしれないこと。
けれど、言わなければならなかった。
「だから、現実を見てください。地図を見て、地下道を調べて、鐘を止める方法を考えてください。僕は、必要なところだけを見る。みんなで決める」
エリアが静かに息を吐いた。
祖父はしばらくケルを見つめていた。
そして、深くうなずいた。
「それでよい」
村長は戸惑っていた。
「しかし、時間がない」
「だから分担する」
祖父の声は鋭かった。
「石工たちは教会の基礎を調べろ。司祭は古い鐘楼の記録を探せ。村長は村人を広場へ集め、地下から光が漏れている場所に近づかせるな。井戸や古い水路も封鎖する」
「賢者様は?」
「私はケルと地下へ行く」
エリアが即座に言った。
「私も行きます」
ケルは反射的に言いかけた。
だめだ。
だが、その言葉は飲み込んだ。
エリアはケルを見ていた。
今度こそ、試されている。
ケルは唇を噛み、それから言った。
「一緒に来て」
エリアは少し驚いたように目を開いた。
そして、柔らかく笑った。
「うん」
祖父は二人を見比べ、何も言わなかった。
ただ、未来年代記の部屋へ向かった。
「本を開く」
ケルの身体が強張る。
祖父は振り返った。
「深く見るためではない。地下への入口を探すためだ。必要な問いだけを立てる」
「問い?」
「予言書は、恐れに反応する。だが同時に、問いにも反応する」
祖父は静かに言った。
「恐れで開けば、恐れを見せる。問いで開けば、手がかりを見せる」
ケルはその言葉を噛みしめた。
今まで自分は、ずっと恐れで本を開いていた。
エリアを失うのが怖い。
村が滅びるのが怖い。
未来がわからないのが怖い。
だから本は、その恐れを見せた。
では、今立てるべき問いは何か。
祖父は台座の前に立ち、本の留め具を外した。
「ケル。聞きたいことを一つに絞れ」
ケルは目を閉じた。
どうすれば村は救えるのか。
どうすればエリアを失わずに済むのか。
どうすれば未来を変えられるのか。
違う。
それでは広すぎる。
恐れが混ざる。
彼は深く息を吸った。
今、必要なのは。
「地下の装置へ、どう行けばいいのか」
祖父はうなずいた。
「よい問いだ」
未来年代記が開いた。
ざわり。
ページがめくれる。
だが、さっきまでのような暴力的な光ではなかった。
文字が静かに浮かび、細い線となって宙に地図を描き始める。
ロゼリアの地下。
水路。
古い井戸。
教会の基礎。
そして、村の北端にある枯れた泉。
ケルは目を凝らした。
「入口は……泉だ」
祖父が地図を見た。
「北の枯れ泉。昔、妖精の泉と呼ばれていた場所だ」
「銀の森の手前ですね」
エリアが言った。
ケルは胸騒ぎを覚えた。
銀の森。
白馬の女王。
未来年代記。
すべてがそこへ繋がっている。
宙の地図に、もう一つの文字が浮かんだ。
ケルには読めなかった。
だが意味が流れ込んでくる。
封印の中心へ至る者は、三つを携えよ。
記す者。
鳴らす者。
選ぶ者。
「三つ……?」
ケルが呟く。
祖父も眉を寄せた。
「記す者は、おそらくケルだ。未来を見る者。年代記に触れた者」
「鳴らす者は?」
司祭が息を呑んだ。
「鐘に関わる者……私でしょうか」
祖父は首を振った。
「わからん」
エリアが小さく言った。
「選ぶ者は?」
部屋に沈黙が落ちた。
ケルはその言葉に、強く引っかかった。
選ぶ者。
未来を見る者ではない。
未来を読む者でもない。
選ぶ者。
エリアが、彼を見ていた。
彼はその視線の意味を、なぜか理解した。
「たぶん……エリアだ」
エリアは驚いた顔をした。
「私?」
「君は未来を見えない」
「うん」
「でも、だから選べる」
言ってから、自分でもその意味が少しわかった。
未来を見てしまう自分は、いつも可能性に縛られる。
見えたものを避けようとし、見えないものを恐れる。
けれどエリアは違う。
見えない未来を、それでも歩く人だ。
怖いから一緒に歩くと、最初に言った人だ。
祖父が静かにうなずいた。
「あり得る」
エリアはしばらく黙っていた。
やがて、息を吸った。
「じゃあ、行くしかないね」
ケルは彼女を見た。
「怖くないの?」
エリアは少し笑った。
「怖いよ」
そして、あの日と同じように言った。
「でも、怖いから一緒に歩くんでしょ」
ケルの胸の奥で、また小さな鐘が鳴った。
本物の鐘は、まだ遠くで鳴り続けている。
だがその音に、ほんの少しだけ負けない音だった。
北の枯れ泉へ向かうころ、村は半分眠りから覚め、半分悪夢の中にいた。
広場には村人たちが集められ、焚き火が焚かれていた。
子どもたちは母親に抱かれ、老人たちは祈りの言葉を繰り返している。
石畳の亀裂には布がかけられ、人々が近づかないよう縄が張られた。
鐘は鳴り続けている。
だが、少しずつ間隔が短くなっていた。
ごおん。
ごおん。
ごおん。
まるで地下の装置が、目覚める呼吸を早めているようだった。
ケル、エリア、祖父、そして司祭が北へ向かった。
司祭は手に小さな鐘を持っていた。
教会の祭具の一つで、葬儀や婚礼の時に鳴らす銀の手鐘だった。
「鳴らす者が私ではないとしても、役に立つかもしれません」
司祭はそう言った。
ケルはそれを見て、少しだけ引っかかりを覚えた。
鳴らす者。
鐘。
音。
歌。
二つの世界を繋ぐ歌声。
歌詞の一節が、どこか遠くから聞こえたような気がした。
いや、歌詞ではない。
まだ書かれていない詩の断片だ。
未来年代記が見せる予言ではなく、自分の内側から湧いてくる言葉。
銀の果実が 時を告げる頃。
七年の夢は 霧と消えゆく。
ケルは胸元の手帳に触れた。
今は書く時間はない。
だが、その言葉は消えなかった。
やがて一行は、村の北端にある枯れ泉へ着いた。
昔は清らかな水が湧いていたという。
だが今は石造りの井戸のような円形の跡だけが残り、底には枯葉と泥が溜まっている。
その向こうには、銀の森が広がっていた。
夜の森は、静かだった。
葉は月もないのに淡く光り、幹の間には白い霧が漂っている。
ケルは森の奥に、白馬の影を探してしまった。
「ここだ」
祖父が言った。
彼は杖で泉の縁を叩いた。
石の一部が、青白く光る。
円環と逆さまの樹の紋章。
祖父は古い言葉で短く唱えた。
司祭が手鐘を一度鳴らす。
りん。
その音は小さかった。
だが、教会の大鐘とは違って、澄んでいた。
泉の底の泥が震える。
枯葉が円を描いて舞い上がる。
そして、底に石の階段が現れた。
地下へ続く階段。
冷たい風が、下から吹き上がってきた。
エリアがケルの手を握った。
祖父は灯りを掲げる。
「ここから先は、予言ではなく現実だ」
ケルはうなずいた。
「はい」
四人は階段を下り始めた。
一段下りるごとに、鐘の音は遠ざかるはずだった。
だが実際には、地下へ近づくほど鐘の音は大きくなった。
音が空気を震わせているのではない。
時間そのものを震わせている。
壁には古代文字が刻まれていた。
その文字は、ケルの目に入るたび、意味を伝えようとして蠢いた。
読むな。
ケルは自分に言い聞かせた。
今は、読むな。
だが、その中の一文だけが、どうしても目に飛び込んできた。
未来を恐れる者、未来を鎖とする。
未来を愛する者、未来を火とする。
ケルは足を止めた。
エリアが振り返る。
「どうしたの?」
「文字が……」
「読んだの?」
「少し」
「何て?」
ケルは壁を見つめた。
「未来を恐れる者は、未来を鎖にする。未来を愛する者は、未来を火にする」
エリアはしばらくその言葉を考えた。
「火って、危ないけど、灯りにもなるよね」
ケルは彼女を見た。
「うん」
「じゃあ、鎖よりいい」
エリアはそう言って、また歩き出した。
本当に、彼女は簡単に言う。
でも、その簡単さに何度も救われている。
階段の終わりに、大きな石の扉があった。
扉には三つの窪みがある。
一つは、書物の形。
一つは、鐘の形。
一つは、手のひらの形。
祖父が言った。
「三つを携えよ、か」
ケルは手帳を取り出した。
未来年代記ではない。
自分の手帳。
未完成の詩が書かれた、自分の書物。
書物の形の窪みに当てると、淡い光が灯った。
司祭が手鐘を鐘の窪みに当てる。
二つ目の光。
最後に、手のひらの窪み。
エリアが息を吸った。
「私だね」
ケルは言った。
「一緒に」
エリアは首を振った。
「これは、たぶん私が選ぶところ」
「でも」
「大丈夫」
彼女は微笑んだ。
「未来は見えないけど、今は見えてる」
エリアは手のひらを窪みに当てた。
その瞬間、扉全体が光り出した。
青白い光ではない。
温かな金色の光だった。
重い石の扉が、ゆっくりと開く。
その向こうに、予言で見た地下の広間が広がっていた。
巨大な円環の装置。
回転する透明な輪。
青白い光の柱。
そして、その前に立つ外套の男。
男はゆっくりと振り返った。
「来たか」
その声を聞いた瞬間、ケルの手が震えた。
エリアが隣で息を呑む。
祖父が杖を構える。
司祭の手鐘が、小さく震える。
男はフードを外した。
顔が現れた。
それは、ケルではなかった。
だが、ケルはその顔を知っていた。
古い肖像画で見た顔。
祖父の部屋の奥に、一枚だけ隠すように飾られていた青年。
ケルの父。
死んだはずの父だった。
祖父が、掠れた声で呟いた。
「ライネル……」
ケルの父は、青白い光の前で微笑んだ。
「久しぶりです、父上」
そして、ケルを見た。
「お前にも会いたかった。ケル」
ケルは何も言えなかった。
死者のような父の瞳には、未来の光だけが宿っていた。