後日譚 語り継がれるもの
それから何年も経ったあと、ロゼリアの子どもたちは、また冬の夜に古い物語を聞くようになった。
暖炉の火がぱちぱちと鳴る。
窓の外では雪が降り、屋根の上には白い静けさが積もる。
子どもたちは毛布にくるまり、老人たちの声に耳を澄ませる。
「昔々、この村には未来を記す書物があった」
老人はそう語り始める。
「その本を読める少年がいた。少年は、未来を見た。村が壊れる未来を。愛する少女と離れ離れになる未来を。父の悲しみが、時を縛る鎖になった未来を」
子どもたちは息を呑む。
「それで、少年はどうしたの?」
「未来を変えたの?」
老人はゆっくりと笑う。
「変えたとも。だが、魔法の剣で怪物を倒したわけではない。王様になって命令したわけでもない。未来を全部見通したわけでもない」
「じゃあ、どうやって?」
老人は暖炉の火に薪をくべる。
火花が、小さな星のように舞う。
「少年は、未来を見ることをやめたのだ」
子どもたちは顔を見合わせる。
「やめたのに、変えられたの?」
「そうだ」
老人は頷く。
「彼は、隣にいる少女の手を取った。そして村の人々と共に、今できることを一つずつ選んだ。壊れた石を積み、鐘を鳴らし、歌を歌い、詩を書いた」
「歌?」
「そう。少女が歌ったのだ。古い予言をほどく歌を」
子どもたちの目が輝く。
「どんな歌?」
老人は、少しだけ声を低くした。
そして、歌うように語った。
「未来は混沌かもしれないが、共に歩もう。
古い予言は、ただの物語。
我らの手で、未来を描け」
暖炉の火が揺れる。
子どもたちは、その言葉を何度も小さく繰り返す。
未来は混沌かもしれないが。
共に歩もう。
古い予言は。
ただの物語。
我らの手で。
未来を描け。
その中のひとりが、不思議そうに尋ねる。
「その少年は、どうなったの?」
老人は窓の外を見た。
雪の向こう、丘の方角に、ひとつの家の灯りが見える。
「詩人になった」
「王都へ行った?」
「行ったこともある。だが、いつも帰ってきた」
「少女とは?」
老人は笑った。
「結婚した」
子どもたちは歓声を上げる。
「それで、ずっと幸せに暮らしました?」
老人は少し考える。
「そういう物語も悪くない」
「違うの?」
「幸せではあった。だが、ずっと簡単だったわけではない」
子どもたちは少し不満そうな顔をする。
老人は続けた。
「二人は何度も喧嘩をした。何度も迷った。詩人は時々、また未来を知りたくなった。少女はそのたびに怒った」
「怖いね」
「いや」
老人は首を振る。
「それが、生きるということだ。幸せとは、何も壊れないことではない。壊れた時に、また一緒に直すことだ」
子どもたちは、まだ完全にはわからない顔をしていた。
それでよかった。
いつか、それぞれの未来でわかる日が来る。
老人は最後にこう言った。
「覚えておきなさい。予言は、未来そのものではない。怖がりな心が見せる影であることも多い。だが、誰かと手を取り、今日の一歩を選ぶなら、その影の形は変わる」
「未来は変えられる?」
「変えられる」
老人は静かに頷く。
「いや、もっと正確に言えば――」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
「未来は、創るものだ」
丘の上の家では、ケルが机に向かっていた。
窓の外には雪が降っている。
遠くの村には灯りがともり、教会の鐘楼には白い補修跡が月明かりに淡く浮かんでいた。
机の上には、古びた手帳がある。
革の表紙には、色褪せた赤いリボンが結ばれていた。
もう何度も結び直され、端は擦り切れている。
それでもケルは、そのリボンを変えなかった。
指先でそっとなぞる。
すると、背後から声がした。
「また詩?」
ケルは振り返らずに答えた。
「うん」
「今日くらい早く寝たら?」
「あと少し」
「あなたのあと少しは信用できない」
エリアが部屋へ入ってきた。
昔より少し大人びた顔。
けれど、目の真っ直ぐさは変わらない。
指には、銀の指輪。
ケルはそれを見るたび、あの秋の丘を思い出す。
「何を書いてるの?」
エリアが隣に来て、手帳を覗き込んだ。
「物語」
「誰の?」
「僕たちの」
「まだ書いてるの?」
「一生分って言っただろ」
エリアは呆れたように笑った。
「本当に長い詩になったね」
「君が続きを待ってるって言ったから」
「そんなに長く待つとは思ってなかった」
「後悔してる?」
エリアは少し考えるふりをした。
ケルは思わず身構える。
それを見て、エリアは笑った。
「してない」
「本当に?」
「ほら、また未来に逃げかけた」
「今のは未来じゃなくて不安」
「同じ親戚みたいなもの」
ケルは苦笑した。
エリアは彼の肩に手を置いた。
「で、どこまで書けたの?」
ケルは手帳の最後のページを見せた。
そこには、こう書かれていた。
それは誰のものだろう。
未完の楽譜。
空白の詩行。
開かれた書物のごとく。
それは、我々自身の手で描くもの。
エリアは静かに読んだ。
そして言った。
「これ、最後?」
ケルは少し迷った。
「物語としては、たぶん」
「あなたとしては?」
「まだ続く」
エリアは微笑んだ。
「じゃあ、いい終わり方」
「未完成なのに?」
「未完成だから」
ケルは彼女を見た。
昔、丘の上で同じことを言われた。
未完成だから、続きを待てる。
あの時は、その意味がよくわからなかった。
今なら少しわかる。
完成とは、終わりでもある。
けれど、生きているものは終わりきらない。
愛も、村も、詩も、未来も。
全部、少しずつ書き足されていく。
ケルは羽ペンを置いた。
「エリア」
「何?」
「ありがとう」
エリアは眉を上げた。
「急に?」
「急に」
「何に?」
ケルは少し考えた。
「未来が怖いって言った時、逃げなかったこと」
エリアは黙った。
「僕が君を見失いそうになった時、怒ってくれたこと」
エリアの目が少し柔らかくなる。
「地下で歌ってくれたこと」
「怖かったよ」
「うん」
「今でも、あの時のことを夢に見る」
ケルは彼女の手を取った。
「僕も」
「でも、生きてる」
「うん」
「だから、いい」
エリアは窓の外を見た。
雪が降っている。
銀の森の方角は、白く霞んで見えなかった。
「未来年代記、今も森にあるんだよね」
「たぶん」
「開きたい?」
ケルは静かに息を吸った。
昔なら、即座に否定したかもしれない。
もう大丈夫だと、強がったかもしれない。
でも今は、正直に言う。
「時々」
エリアは彼を見た。
「どんな時?」
「君が体調を崩した時。村で悪い噂を聞いた時。詩が書けなくなった時。明日のことが怖くなった時」
「うん」
「でも、開きに行かない」
「どうして?」
ケルは、エリアの手を握った。
「先に、君に言うって決めたから」
エリアは小さく笑った。
「よろしい」
「先生みたいだ」
「昔からでしょ」
「そうだった」
二人は笑った。
その時、遠くで鐘が鳴った。
夜の終わりを告げる、小さな鐘。
教会の大鐘ではない。
村の誰かが、明日の準備のために鳴らした合図だった。
その音は、穏やかだった。
ケルは窓を開けた。
冷たい風が部屋に入ってくる。
雪の匂い。
煙突の煙の匂い。
遠くのパン種の匂い。
ロゼリアの夜。
生きている村の気配。
彼は手帳を閉じた。
「寝よう」
エリアは目を丸くした。
「珍しい」
「明日、早いから」
「何かあるっけ?」
「水路の点検」
「詩人なのに?」
「詩人でも水路くらい見る」
エリアは笑った。
「いいこと」
ケルは蝋燭を吹き消した。
部屋が暗くなる。
窓の外の雪明かりだけが、薄く床を照らしている。
眠る前に、ケルはもう一度だけ机の上の手帳を見た。
赤いリボン。
未完の詩。
空白のページ。
昔、彼は未来を知りたかった。
間違えないために。
失わないために。
愛する人を守るために。
けれど今は知っている。
間違えないことが、幸せなのではない。
失わないことだけが、愛ではない。
守るとは、未来を閉じ込めることではない。
守るとは、相手が自分の未来を選べると信じること。
そして、自分もまた、恐れながら選ぶこと。
明日、また喧嘩するかもしれない。
詩が書けなくなるかもしれない。
村に新しい災いが来るかもしれない。
銀の森の女王が、いつかまた白馬に乗って現れるかもしれない。
それでも。
ケルは、暗闇の中でエリアの手を探した。
エリアは眠りかけていたが、指先で彼の手を握り返した。
それだけで、未来はまだ白紙のままでいいと思えた。
その頃、銀の森の奥では、石室が静かに雪を受けていた。
中には、一冊の古い書物が眠っている。
未来年代記。
黒い革の表紙。
古びた金の縁取り。
逆さまの樹の紋章。
本は閉じられていた。
だが最後のページだけは、どこか遠い光を宿していた。
そこには、かつて何も書かれていなかった。
今も、はっきりとした文字はない。
けれど見る者が見れば、淡い金色の線が、まるで誰かの手書きのように浮かび上がって見えただろう。
運命は未完成。
その下に、もう一行。
愛が創る。
森の外で、夜明け前の風が吹いた。
銀の葉が、かすかに鳴った。
それは、ページがめくられる音にも似ていた。
だが本は開かれない。
未来は、もう本の中にはなかった。
それは村の灯りの中にあった。
水路を直す手の中に。
朝のパンを焼く窯の中に。
誰かに謝る言葉の中に。
赤いリボンの結び目の中に。
銀の指輪の小さな傷の中に。
そして、まだ眠っている二人の、繋がれた手の中に。
夜が明ける。
ロゼリアの丘に、朝の光が差す。
誰もその日のすべてを知らない。
だからこそ、人々は扉を開ける。
水を汲み、火を起こし、名を呼び、手を伸ばす。
開かれた書物のような一日へ。
未完の楽譜のような未来へ。
そして、まだ書かれていない白紙の上に、今日という最初の一行を書き始める。
Future Chronicle
それは、予言の書ではない。
自分たちの手で描き続ける、未来の年代記である。