「私が隣にいたこと、一度でもちゃんと見てくれた?」
その言葉のあと、景色は崩れた。
光の糸が切れ、本のページへ吸い込まれていく。
広間は再び静寂に包まれた。
ケルは膝をついていた。
手が震えている。
喉が焼けるように痛い。
「今のは……」
声がうまく出なかった。
「未来、ですか」
女王は答えた。
「可能性です」
「でも、起こるんでしょう?」
「あなたがそれを信じ、そこへ向かって歩き続けるなら」
ケルは顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「予言とは、道ではありません。影です」
女王は本のページに指を滑らせた。
「けれど人は、影を見て道だと思う。そして自ら、その影の形に合わせて歩き始める」
「じゃあ、変えられるんですか」
「変えられる未来もあります」
「変えられない未来も?」
女王はまた答えなかった。
ケルは唇を噛んだ。
「教えてください」
「何を」
「どうすれば村を救えるのか。どうすればエリアを……」
言いかけて、彼は止まった。
エリアを失わずに済むのか。
その言葉を口にしたら、本当にそうなる気がして怖かった。
女王はケルを見つめた。
「七年」
「え?」
「七年、夢を見なさい」
「七年?」
「時の国では七年。人の世では、一夜」
ケルは理解できなかった。
「その間に、あなたは未来年代記の読み方を知る。予言の断片を見、災いの根を探り、人々を救う術を学ぶ」
「そんなことができるんですか」
「あなたが望むなら」
ケルは迷った。
エリアの顔が浮かんだ。
丘で小指を差し出す彼女。
「怖いから一緒に歩くんじゃない?」と言った彼女。
そして、本の中で見た未来の彼女。
「私が隣にいたこと、一度でもちゃんと見てくれた?」
ケルは胸を押さえた。
あんな未来にはしたくない。
絶対に。
「学びます」
彼は言った。
「未来を変えるために」
女王の瞳が、ほんの少しだけ哀しげに揺れた。
「未来を変えるために未来を見る者は、やがて未来から目を離せなくなる」
「それでも」
「愛する者を守るため?」
「はい」
「では覚えておきなさい」
女王はケルの前に立ち、彼の顎に指を添えた。
「愛は、守るという名の檻にもなる」
ケルはその意味を、その時は理解できなかった。
女王は身をかがめた。
彼女の唇が、ケルの額に触れた。
冷たく、熱い口づけだった。
その瞬間、広間の柱が一斉に光り出した。
星の水面が高く跳ね、空と床の境界が消える。
本のページが嵐のようにめくれ、無数の未来がケルの中へ流れ込んだ。
春の洪水。
夏の疫病。
秋の飢饉。
冬の葬列。
笑うエリア。
泣くエリア。
背を向けるエリア。
白い衣を着たエリア。
結婚式の鐘。
割れる杯。
赤い空。
青い光。
崩れる塔。
白紙のページ。
ケルは叫んだ。
だが、その声は未来の海に飲まれた。
次に目を開けた時、ケルは丘にいた。
夜明け前だった。
空の端が、薄く青み始めている。
草は朝露に濡れ、遠くで鶏が鳴いた。
村はまだ眠っていた。
ケルはゆっくりと身を起こした。
身体が重い。
けれど、不思議と眠っていた感じはしなかった。
むしろ長い長い旅から戻ったようだった。
七年。
女王の声が耳に残っていた。
時の国では七年。
人の世では、一夜。
ケルは自分の手を見た。
少年の手だった。
けれど、その手が見たものは、少年のままでは抱えきれないほど多かった。
草の上に、手帳が落ちていた。
昨日、書きかけたページが開かれている。
怖いから――
その先は空白。
ケルは震える指で羽ペンを取った。
続きを書こうとした。
怖いから、一緒に歩く。
そう書くはずだった。
でも、彼の手は別の言葉を書いた。
怖いから、知らなければならない。
書いた瞬間、ケルは自分でもぞっとした。
その時、丘の下から声がした。
「ケル!」
エリアだった。
彼女が駆け上がってくる。
昨日と同じ服。
昨日と同じ髪。
昨日と同じ赤いリボン。
生きている。
泣いていない。
背を向けていない。
ケルは立ち上がった。
「エリア……」
エリアは息を切らして彼の前に来ると、眉を吊り上げた。
「帰ってきてって言ったでしょ!」
いつもの声だった。
現実の声だった。
ケルの胸に、熱いものが込み上げた。
彼は思わずエリアを抱きしめた。
エリアは驚いて固まった。
「ちょ、ちょっと、ケル?」
「よかった」
「何が?」
「君が、ここにいて」
エリアはしばらく黙っていた。
やがて、そっと彼の背に手を回した。
「……変な夢でも見たの?」
ケルは答えられなかった。
変な夢。
そう言ってしまえたら、どれほどよかっただろう。
エリアは少し身体を離し、彼の顔を覗き込んだ。
「顔色、悪いよ」
「平気」
「平気じゃない」
「本当に」
「嘘」
エリアの目は、朝の光の中でもまっすぐだった。
ケルはその目を見ていられなくなった。
未来のエリアの声が蘇る。
私が隣にいたこと、一度でもちゃんと見てくれた?
彼は目を逸らした。
エリアの表情が曇った。
「ケル?」
「祖父のところへ行かなきゃ」
「今?」
「うん」
「どうして」
ケルは手帳を閉じた。
「確かめたいことがある」
「私も行く」
「だめだ」
思ったより強い声が出た。
エリアが驚いた顔をする。
ケル自身も驚いた。
「ごめん。でも……これは僕のことだから」
エリアは彼を見つめた。
「昨日から、何か隠してる」
「隠してない」
「隠してる」
「エリア」
「未来が怖くなったら、ちゃんと言ってって言ったよね」
ケルは何も言えなかった。
エリアの言葉は、いつも扉の鍵穴にぴたりとはまる。
けれど今、その扉を開けることが怖かった。
自分が見たものを話せば、彼女まで予言に巻き込んでしまう。
彼女まで、未来の影に怯えることになる。
それだけは嫌だった。
「大丈夫」
ケルは言った。
「僕が何とかする」
エリアの顔から、少しずつ表情が消えた。
それは、本の中で見た未来の彼女に似ていた。
ケルの心臓が冷たくなる。
「僕が」という言葉が、二人の間に落ちた。
エリアは小さく息を吸った。
「そう」
その声は静かだった。
「じゃあ、行けば」
ケルは何か言おうとした。
だが、エリアは先に背を向けた。
赤いリボンが朝の風に揺れる。
ケルはその背中に手を伸ばしかけて、止めた。
追いかけなければ。
そう思った。
でも同時に、祖父の家の奥にある予言書のことが頭から離れなかった。
村が滅びる未来。
エリアが泣く未来。
地下から溢れる青白い光。
知らなければならない。
守るために。
ケルは拳を握りしめ、エリアとは逆の方向へ走り出した。
村へ。
祖父の家へ。
古の予言書のもとへ。
その背中を、銀の森の奥から誰かが見ていた。
白い馬。
銀の髪の女。
妖精の女王は、朝霧の中で静かに微笑んだ。
「さあ、詩人の子」
彼女は誰にも聞こえない声で囁いた。
「あなたは、どちらを見つめ続けるのでしょう」
未来か。
それとも、隣にいる者か。