ただ、森の奥からこちらを見ている。
「未来を見る力は、まだあなたの中に残っています」
ケルは黙った。
どこかで、わかっていた。
未来年代記を閉じたからといって、完全に消えたわけではない。
ページの音は遠くなったが、耳を澄ませばまだ聞こえるかもしれない。
「使いますか」
女王が尋ねた。
ケルは答える前に、考えた。
未来を見る力。
それは危うい。
人を救うこともある。
人を縛ることもある。
橋を救ったのも、その力だった。
父を狂わせたのも、その力だった。
力そのものが善悪なのではない。
何を恐れて開くのか。
何のために使うのか。
「必要なら」
ケルは言った。
「でも、怖いから開くのはやめます」
女王は首を傾げた。
「怖くなくなる日が来ると?」
「来ないと思います」
「では?」
「怖い時は、まず誰かに言います」
女王は黙った。
ケルは続けた。
「エリアに。祖父に。村の人に。僕一人で未来を決めない」
銀の森の霧が、静かに揺れた。
女王は微笑んだ。
「人の子は、時々おもしろい答えを選びます」
「褒めてます?」
「ええ。少しだけ」
「少しだけか」
女王は白馬の手綱を引いた。
「古い予言は、完全には消えません。人はこれからも未来を恐れる。星に尋ね、書物に縋り、誰かに答えを求めるでしょう」
「はい」
「けれど、あなたは知った」
女王の声が、森に深く響いた。
「未来は、予言でしかない」
ケルはうなずいた。
「未来は、創るものです」
女王の瞳に、星が瞬いた。
「その言葉を、詩にしなさい」
「もう書き始めています」
「完成しますか」
ケルは少し笑った。
「たぶん、ずっと未完成です」
「なぜ?」
「生きている限り、続きを書くから」
女王は満足そうに微笑んだ。
「ならば行きなさい。未完成の者。あなたの年代記は、まだ白紙です」
「あなたは?」
「私は、森にいます。人が未来を恐れ、扉を求める限り」
「また会いますか」
「あなたが、未来を答えとして求めるなら」
ケルは首を振った。
「なら、しばらく会わないと思います」
女王は、初めて声を立てて笑った。
その笑い声は、銀の鈴のように森へ広がった。
「それでよいのです」
白馬が霧の中へ歩き出す。
女王の姿が薄れていく。
最後に、彼女は振り返らずに言った。
「愛する者を守るとは、その者の未来を信じること」
ケルは目を閉じた。
次に目を開けると、朝だった。
窓の外では、ロゼリアの村が目覚め始めていた。
パンの匂いがした。
昨日、水路が戻ったからだ。
ケルは起き上がり、机の上の手帳を見た。
赤いリボンが結ばれている。
彼は手帳を開き、夢の中で女王に言われた言葉を書いた。
愛する者を守るとは、その者の未来を信じること。
それから少し考えて、下にもう一行書いた。
そして、自分の未来も。
窓の外から、エリアの声がした。
「ケル! 起きてる?」
ケルは窓を開けた。
エリアが下に立っていた。
指には銀の指輪。
髪には新しい布で結んだ小さなリボン。
「起きてる」
「今日、教会の片付け手伝うって言ったよね」
「言った」
「じゃあ早く」
「今行く」
「手帳、忘れないで」
ケルは笑った。
「忘れない」
手帳を胸元に入れる。
赤いリボンが少しだけ覗いた。
ケルは部屋を出る前に、もう一度机に向かった。
未完の詩の最後に、こう書いた。
それは誰のものだろう。
未完の楽譜。
空白の詩行。
開かれた書物のごとく。
それは、我々自身の手で描くもの。
彼は羽ペンを置いた。
詩はまだ完成していない。
でも、今はそれでよかった。
ケルは外へ出た。
朝の光の中で、エリアが待っていた。
「遅い」
「ごめん」
「また詩?」
「うん」
「完成した?」
ケルは首を振った。
「まだ」
エリアは笑った。
「じゃあ、続きを待ってる」
ケルは彼女の隣に並んだ。
二人は、壊れた教会へ向かって歩き始めた。
未来は見えなかった。
だからこそ、空は広かった。
そしてその空白には、二人の足音が、確かに書き込まれていた。
終章 Future Chronicle
ロゼリアの教会が修復されるまで、三月かかった。
完全に元通りになったわけではない。
鐘楼には、あの夜の亀裂が薄く残った。
石工たちはできる限り補強したが、古い石に刻まれた傷をすべて消すことはできなかった。
けれど司祭は、それでいいと言った。
「傷のない祈りなど、どこか嘘くさい」
その言葉を聞いて、村人たちは笑った。
教会の大鐘は、しばらく鳴らされなかった。
あの夜、未来を固定しようと鳴り続けた鐘。
村人たちの中には、もうあの音を聞きたくないという者もいた。
だが、春の初め。
修復が終わった日、司祭は皆を広場に集めた。
「この鐘は、恐れのために鳴った」
司祭は言った。
「だが、恐れのためだけに残す必要はない。今日からこの鐘は、終わりではなく、始まりを告げるために鳴らす」
村人たちは、静かに鐘楼を見上げた。
ケルもその中にいた。
隣にはエリアがいる。
彼女の指には、母の銀の指輪が光っていた。
鐘が鳴った。
ごおん。
その音を聞いた瞬間、ケルの身体はわずかに強張った。
地下の青白い光。
父の声。
崩れる円環。
未来を閉じ込めようとした鐘の響き。
それらが一瞬、胸の奥で目を覚ました。
けれど次の瞬間、エリアの手がそっと彼の手に触れた。
ケルは彼女を見た。
エリアは何も言わなかった。
ただ、ここにいる。
それだけで十分だった。
鐘の音は、空へ広がっていく。
恐ろしい音ではなかった。
悲しい音でもなかった。
古い傷を忘れさせる音ではなく、傷を抱えたまま進んでいいと告げる音だった。
ケルは目を閉じた。
未来の光景は見えなかった。
ただ、風が吹いていた。
ロゼリアの丘から来る風だった。
⸻
その日の夜、教会の広間で小さな祝いが開かれた。
壊れた場所を直した記念。
村が生き延びた記念。
そして、ケルとエリアの婚約を祝う記念でもあった。
「ついでみたいに言わないでほしい」
ケルがそう言うと、エリアは笑った。
「村の修復と一緒に祝われるなんて、縁起がいいじゃない」
「そうかな」
「壊れても直せる夫婦ってことで」
「最初から壊れる前提?」
「壊れないものなんてないでしょ」
エリアはそう言って、パンを半分に割り、片方をケルに渡した。
その言葉は、以前なら少し怖かったかもしれない。
壊れる。
終わる。
失う。
ケルはそういう言葉を、できるだけ避けたかった。
けれど今は、少し違った。
壊れることがある。
でも、直すこともできる。
傷が残ることがある。
でも、そこから別の形に育つこともある。
未来は、壊れない約束ではなく、直し続ける意志なのかもしれなかった。
広間の中央では、村人たちが輪になって踊っていた。
子どもたちは笑い、大人たちは歌い、老人たちは壁際でその様子を見守っている。
祖父は暖炉の近くに座っていた。
膝の上には古い杯。
顔には疲れが残っているが、以前より少しだけ柔らかく見えた。
ケルはパンを持ったまま、祖父の隣に座った。
「疲れた?」
「老人に愚問をするな」
「それ、疲れてるってこと?」
「とても疲れている」
ケルは笑った。
祖父も、ほんの少し笑った。
しばらく二人は、踊る村人たちを眺めていた。
やがて祖父が言った。
「未来年代記のことだが」
ケルの表情が少し引き締まる。
「うん」
「封じる場所を変えようと思う」
「祖父の家じゃなく?」
「私の家にある限り、お前は近すぎる」
ケルは否定しようとして、やめた。
たしかに、あの本はまだ彼を呼ぶことがある。
夜、疲れている時。
不安になった時。
エリアと些細なことで言い合った時。
一瞬だけ、思ってしまう。
この先を見られたら。
間違える前に、正解がわかれば。
そのたびに、ケルは手帳の赤いリボンに触れる。
怖いから、一緒に歩く。
それでも、本が近すぎるのはよくない。
「どこへ?」
「教会の地下ではない。あそこはもう閉じた。銀の森の奥に、古い石室がある」
ケルは祖父を見た。
「妖精の領分に?」
「人の手だけで持つには、重すぎる本だ」
祖父は杯を見つめた。
「だが、完全に捨てることもできん。未来を見なければ救えない時もある。橋のようにな」
ケルはうなずいた。
「使い方を間違えなければ」
「そうだ」
祖父は彼を見た。
「お前は、もう少し間違えるだろう」
「え」
「人は一度学んだくらいで賢くはならん」
「ひどい」
「だが、お前は戻ってくる道を少し知った」
祖父は、ケルの胸元の手帳を指差した。
「その小さな本を、大きな本より先に開け」
ケルは手帳に触れた。
「うん」
「それから、人の顔を見ろ」
「うん」
「特にエリアの顔を」
「それは、毎日見ると思う」
祖父は鼻を鳴らした。
「なら、見えていると思い込むな」
ケルは少し黙った。
その言葉は、深く残った。
近くにいる人ほど、見えていると思ってしまう。
未来ばかりではない。
日常もまた、人を見えなくする。
当たり前に隣にいると思った瞬間、その人の声を聞き逃す。
「わかった」
祖父は頷いた。
「ならいい」
ケルはしばらくしてから、小さく聞いた。
「父さんのこと、母さんにはどう伝えればいいかな」
母は今、遠い親戚の家で療養している。
災害のあと、すぐには戻ってこられない。
父が生きていたこと。
予言に飲まれていたこと。
最後に未来を解放したこと。
どう伝えればいいのか、ケルにはわからなかった。
祖父は長い間、火を見つめていた。
「真実を、全部一度に渡す必要はない」
「隠すの?」
「違う。相手が受け取れる形にする」
祖父は静かに言った。
「お前がエリアに予言を話す時に学んだことと同じだ」
ケルはうなずいた。
「母さんは、父さんのことをまだ……」
「愛しているかもしれない。憎んでいるかもしれない。その両方かもしれない」
祖父は杯を置いた。
「人の心を、お前が先に決めるな」
その言葉は、ケルの胸に沈んだ。
「うん」
祖父は少し疲れたように笑った。
「今夜は祝いだ。難しいことは明日にしろ」
「祖父が言い出したんだけど」
「老人は勝手なものだ」
ケルは笑った。
その時、エリアが広間の向こうから手招きした。
「ケル!」
「何?」
「踊るよ」
ケルは固まった。