第七章 死んだ父
ケルは、父の顔をほとんど覚えていなかった。
記憶にあるのは、断片だけだ。
大きな手。
古い外套の匂い。
暖炉のそばで低く歌う声。
自分を抱き上げた時、頬に触れた硬い髭。
それが本当に記憶なのか、あとから聞いた話をもとに自分で作った幻なのか、ケルにはわからなかった。
父は、ケルが幼いころに死んだ。
そう聞かされていた。
旅の途中で病に倒れた。
遠い町で葬られた。
だから墓はロゼリアにはない。
母はそれ以上を語らなかった。
祖父も、父の話になるといつも別の本を開いた。
だからケルにとって父は、空白だった。
自分の人生に最初から欠けている一頁。
読もうとしても、インクが滲んで何も見えない頁。
その空白が今、青白い光の前に立っていた。
「父さん……?」
声にした瞬間、喉がひどく乾いた。
外套の男――ライネルは、穏やかに微笑んだ。
「大きくなったな」
その言葉は、あまりにも普通だった。
まるで長い旅から帰ってきた父が、久しぶりに息子へ声をかけたようだった。
けれど、その背後では巨大な円環の装置が回り続けている。
透明な輪の表面に、無数の未来が映っている。
村が壊れる未来。
人々が逃げる未来。
エリアが白い衣を着て立つ未来。
ケルが予言書を抱え、すべてを見失う未来。
その光の中に立つ父は、人ではなく、未来の影そのもののように見えた。
祖父が一歩前に出た。
「ライネル。なぜここにいる」
父は祖父を見た。
「父上なら、わかっているはずです」
「お前は死んだ」
「死んだことにされた」
祖父の顔が強張った。
ケルは祖父を見た。
「どういうこと?」
祖父は答えなかった。
父が代わりに言った。
「私は死んでいない。少なくとも、身体は死ななかった。ただ、この場所に留まっただけだ」
「留まった?」
「未来を見続けるために」
ケルの胸が冷たくなった。
祖父が低く言った。
「違う。お前は予言に飲まれた」
父は少しだけ笑った。
「そう呼ぶのは、未来から目を背ける者の言い方です」
「お前は妻と子を捨てた」
その言葉が、地下広間に重く響いた。
ケルの心臓が止まったような気がした。
父は顔色を変えなかった。
「捨てたのではありません。守るために離れた」
「守る?」
祖父の声に怒りが混ざった。
「お前が見た未来から逃げたのだ。愛する者を失うことを恐れ、すべてを管理しようとして、最後には誰の声も聞かなくなった」
父の目が、わずかに細くなった。
「私は、誰よりも聞いていました。未来の悲鳴を。村が焼ける音を。妻が泣く声を。幼いケルが瓦礫の中で私を呼ぶ声を」
ケルは息を呑んだ。
父がこちらを見る。
その瞳には、やはり青白い光が宿っていた。
「私は見たのだ。お前が死ぬ未来を」
地下の空気が止まった。
エリアが小さくケルの手を握った。
父は続けた。
「何度も見た。病で死ぬ未来。災害で死ぬ未来。予言書に触れ、心を壊す未来。愛する者を失い、自ら命を捨てる未来」
「やめろ」
祖父が言った。
「その子に恐れを植え付けるな」
「恐れではありません。事実です」
「可能性だ!」
祖父の声が地下に響いた。
「お前はまだ、それを学んでいないのか!」
父の表情が一瞬だけ歪んだ。
だがすぐに、静かな顔へ戻った。
「可能性だからこそ、私はここにいる。無数の可能性から、最も安全な一本を選び取るために」
ケルは、父の言葉を聞きながら、自分の奥にある恐れが反応するのを感じていた。
最も安全な未来。
誰も死なない未来。
エリアが離れていかない未来。
村が滅びない未来。
自分が間違えない未来。
それは、恐ろしく甘い響きだった。
エリアが彼の手を強く握る。
ケルは我に返った。
今。
今のエリアを見る。
彼女は父を睨んでいた。
怖がっている。
それでも逃げずに立っている。
父はエリアへ視線を移した。
「君が、エリアか」
エリアは一歩も下がらなかった。
「そうです」
「ケルの幼なじみ」
「はい」
「彼が愛している少女」
エリアの頬がわずかに赤くなった。
だが視線は逸らさない。
「それが何か」
父は柔らかく微笑んだ。
「君もまた、彼を苦しめる」
ケルの身体が強張った。
エリアの表情が変わる。
父は続けた。
「愛とは、不安定なものだ。今日の約束は、明日の迷いに負ける。優しさは疲労に濁り、憧れは生活に擦り減り、情熱は沈黙へ変わる」
「それは……」
エリアが言いかける。
父は言葉を重ねた。
「君はいつか、ケルを責める。彼が未来ばかりを見たと。自分を見てくれなかったと。君のその言葉が、彼を壊す」
ケルは息を止めた。
まさに自分が見た未来だった。
エリアは唇を噛んだ。
父は穏やかに言った。
「だから、私はそれを防ぐ。君たちが傷つかない未来へ固定する」
エリアは父を見つめた。
「そんなもの、未来じゃありません」
「では何だ」
「あなたの恐怖です」
父の表情が、初めてはっきりと変わった。
エリアは続けた。
「あなたは、未来を守っているんじゃない。傷つくかもしれない今から逃げているだけです」
ケルは驚いてエリアを見た。
彼女の声は震えていた。
けれど、その震えは弱さではなかった。
怖くても立っている者の声だった。
父は少しだけ首を傾げた。
「君は未来を見ていないから、そう言える」
「そうです」
エリアは即座に答えた。
「私は未来を見られません。だから、選べます」
地下の装置の音が、わずかに乱れた。
透明な輪のひとつが軋む。
父の目が細くなる。
「選ぶ?」
「はい」
「何を」
エリアはケルを見た。
ほんの一瞬だけ。
それから父へ向き直った。
「不安でも、怖くても、決まっていなくても、それでも一緒に歩くことを」
ケルの胸の奥で、熱いものが灯った。
未来を恐れる者、未来を鎖とする。
未来を愛する者、未来を火とする。
その言葉の意味が、少しだけわかった気がした。
父は静かに笑った。
「美しい言葉だ。だが、言葉は未来を救わない」
「救うよ」
ケルが言った。
自分でも驚くほど、声はまっすぐだった。
父が彼を見る。
「ケル」
「言葉は、人を動かす。人が動けば、未来は変わる」
父の瞳が揺れた。
ケルは続けた。
「僕はずっと、未来を見れば守れると思ってた。でも違った。見えるほど怖くなった。怖くなるほど、エリアを遠ざけた。村の人たちも、今の自分も見えなくなった」
彼は父の背後の装置を見た。
回り続ける円環。
無数の未来。
無数の恐れ。
「父さんも、そうだったんだね」
父の唇がわずかに動いた。
「私は、お前を守るために」
「うん」
ケルはうなずいた。
「たぶん、本当にそうだったんだと思う」
その言葉に、父の表情が少しだけ緩んだ。
けれどケルは続けた。
「でも、守るためにいなくなったら、残された人は守られない」
父の顔から表情が消えた。
「僕は、父さんに守られたかったんじゃない」
ケルの声が震えた。
ずっと、自分でも気づかないようにしていた言葉だった。
「一緒にいてほしかった」
地下広間に沈黙が落ちた。
祖父が目を伏せる。
エリアがケルの手を握る。
父は何も言わない。
ケルは胸の痛みを押し込めず、そのまま言葉にした。
「未来で僕が死ぬかもしれなかったとしても、村が危なかったとしても、母さんが泣くかもしれなかったとしても、それでも、一緒に考えてほしかった。勝手に全部背負って、勝手にいなくならないでほしかった」
父の口元が震えた。
「お前には、わからない」
「わからないよ」
ケルは言った。
「父さんがどれだけ怖かったか、僕には全部はわからない。でも今なら少しわかる。僕も同じことをしようとしてたから」
エリアの方を一瞬見る。
「愛してるから守るって言いながら、その人の声を聞かなくなる。怖いから未来を見てるのに、見れば見るほど今を壊していく」
父は目を閉じた。
装置の青白い光が強まる。
「ならばどうする」
父は低く言った。
「未来が本当に壊れるとしても。愛する者が本当に離れていくとしても。村が本当に滅ぶとしても。お前は、何も定めずにいられるのか」
ケルは答えられなかった。
怖い。
やはり怖い。
この瞬間に強くなったからといって、未来への恐れが消えたわけではなかった。
彼女と結婚して、うまくいかないかもしれない。
生活に疲れて、言葉を間違えるかもしれない。
自分の弱さで、彼女を傷つけるかもしれない。
村を救えないかもしれない。
何も保証はない。
だが、エリアの手があった。
祖父の沈黙があった。
司祭の震える銀の手鐘があった。
地上で怯えながら待つ村人たちがいた。
未来ではない。
今、ここにあるもの。
ケルは息を吸った。
「いられるかは、わからない」
父が目を開ける。
「でも、決めてしまった未来より、選び続ける未来がいい」
その言葉と同時に、ケルの手帳が淡く光った。
胸元に入れていた手帳が、ひとりでに開く。
ページがめくられ、丘で書きかけた一行が現れた。
怖いから、一緒に歩く。
その文字が金色に光る。
地下の青白い光が、わずかに退いた。
祖父が息を呑む。
「未来年代記ではなく……ケル自身の書が反応している」
父の目が鋭くなった。
「その程度の詩で、時の装置は止まらない」
父が手を掲げる。
巨大な円環が激しく回り始めた。
透明な輪に映る未来が、次々と一つに収束していく。
無数の可能性が消えていく。
笑う未来も。
泣く未来も。
失敗する未来も。
やり直す未来も。
すべてが一本の青白い道へ吸い込まれていく。
ケルは直感した。
このままだと、未来が固定される。
村は壊れないかもしれない。
誰も死なないかもしれない。
でも、誰も本当に選べなくなる。
「やめて!」
エリアが叫ぶ。
父は首を振った。
「もう遅い。鐘は鳴った。封印は目覚めた。あとは未来を一つに結ぶだけだ」
祖父が杖を掲げ、古い言葉を唱えた。
しかし青白い光に弾かれる。
司祭が手鐘を鳴らした。
りん。
澄んだ音が広間に響く。
一瞬、円環の回転が鈍る。
父が司祭を睨んだ。
「その鐘では足りない」
司祭の手が震える。