これはまだ起きていない。
過去でも現在でもない。
見ているだけだ。
橋の中央が崩れた。
荷馬車が傾く。
馬が嘶く。
マルクが手綱を引く。
次の瞬間、馬車ごと谷へ落ちた。
叫び声。
砕ける木材。
黒い水しぶき。
そこで景色が止まった。
文字が浮かび上がる。
ケルには読めない。
だが意味だけが頭に流れ込んできた。
霜月の三日目。東の橋、凍裂により崩落。
穀物、馬、人命、失われる。
ケルは息を呑んだ。
霜月の三日目。
それは、三日後だった。
景色が崩れた。
光の糸がほどけ、ケルは祖父の部屋へ戻った。
膝から力が抜ける。
祖父が肩を支えた。
「何を見た」
「東の橋が落ちる。三日後。マルクさんの荷馬車が……」
祖父はすぐに顔を上げた。
「橋の点検をさせよう」
「信じてくれるの?」
「信じるしかあるまい」
祖父は本を閉じようとした。
だが、ケルは手を伸ばした。
「待って」
「今日はここまでだ」
「だめだ。もっと見ないと」
「ケル」
「村の大災害の手がかりを探さなきゃ」
祖父の声が強くなった。
「今のお前には早い」
「でも」
「一度見れば、十分だ」
ケルは本を見た。
ページの奥で、まだ無数の光景が蠢いている気がした。
橋が落ちる。
なら、防げる。
小さな未来を変えられるなら、大きな未来だって変えられるかもしれない。
エリアの涙も。
村の崩壊も。
「もう一度だけ」
「ならん」
祖父は本を閉じた。
重い音が部屋に響いた。
「未来を救いたいなら、まず今の一つを救え」
ケルは唇を噛んだ。
祖父の言うことは正しい。
三日後の橋を防ぐ。
それが今できることだ。
だが心のどこかで、もっと見たいという渇きが生まれていた。
知らなければならない。
すべてを。
そうすれば、間違えずに済む。
誰も失わずに済む。
ケルはその渇きが、自分のものなのか、本が残したものなのか、まだわからなかった。
その日のうちに、祖父は村長と数人の職人を集めた。
東の橋が危ない。
すぐに補強が必要だ。
祖父の言葉には重みがあった。
村人たちは不思議がりながらも、従った。
橋の石組みを調べると、内側に大きな亀裂が見つかった。
冬の凍結で、いつ崩れてもおかしくない状態だった。
マルクは青ざめた。
「三日後に穀物を運ぶ予定だった」
村人たちの視線が、祖父とケルに向いた。
祖父は何も言わなかった。
だが噂はすぐに広がった。
賢者の孫が、橋の崩落を言い当てた。
古の予言書を読んだのではないか。
伝説の選ばれし者ではないか。
夕方になるころには、村中がその話でざわついていた。
ケルは家へ戻る途中、井戸端でエリアに会った。
彼女は水桶を持って立っていた。
赤いリボンが、夕陽に染まっている。
ケルは思わず足を止めた。
エリアは彼を見た。
「橋のこと、本当?」
「うん」
「あなたが見たの?」
ケルは答えに迷った。
もう隠せない。
けれど、全部は言えない。
「少しだけ」
エリアは水桶を置いた。
「少しだけって?」
「予言書を見た」
エリアの表情が変わった。
「古の?」
ケルはうなずいた。
「本当に読めたの?」
「読むというより、見えた」
「何が」
「橋が崩れるところ」
「それだけ?」
ケルは黙った。
エリアの目が細くなる。
「それだけじゃないんだ」
「エリア」
「私のことも見た?」
心臓を掴まれたようだった。
ケルは目を逸らした。
それだけで、答えになった。
エリアは小さく息を吐いた。
「どんな未来?」
「言えない」
「どうして」
「君を怖がらせたくない」
「私は子どもじゃない」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、どういうこと?」
ケルは拳を握った。
「僕が何とかするから」
言った瞬間、朝と同じ言葉だと気づいた。
エリアの顔がまた静かになる。
「また、それ」
「ごめん。でも本当に、僕が……」
「ケル」
エリアは彼の言葉を遮った。
「私、あなたに守られたいんじゃない」
ケルは固まった。
「じゃあ、どうしてほしいの」
「一緒に考えたい」
その言葉は、あまりにも簡単だった。
けれど、ケルには難しかった。
未来の恐ろしさを知っているのは自分だけだ。
予言書を読めるのも自分だけだ。
村を救えるかもしれないのも自分だけだ。
なら、エリアを巻き込むべきではない。
彼女を、未来の影に近づけるべきではない。
「危ないんだ」
「何が?」
「未来を知ることは」
「なら、あなたはどうして一人で背負うの」
「僕にしかできないから」
エリアはケルを見つめた。
その目に、怒りよりも悲しみがあった。
「あなた、変わった」
「昨日からだよ」
その一言が、ケルの胸を刺した。
昨日。
たった昨日のことだ。
丘で隣に座り、野いちごを食べ、未来は怖いから一緒に歩くものだと話していた。
それなのに、今の自分は彼女を遠ざけようとしている。
「ごめん」
ケルは言った。
「でも、今はまだ話せない」
エリアは水桶を持ち上げた。
「わかった」
「エリア」
「何?」
「怒ってる?」
「怒ってる」
正直な答えだった。
「でも、それより怖い」
ケルは顔を上げた。
エリアは泣いてはいなかった。
けれど声は少し震えていた。
「未来じゃなくて、あなたが一人でどこかへ行ってしまうことが怖い」
その言葉は、ケルをその場に縫い止めた。
エリアは背を向けた。
赤いリボンが揺れる。
ケルは追いかけようとした。
だが、その時、頭の奥で本のページがめくれる音がした。
ざわり。
ざわり。
目の前の夕暮れが一瞬だけ歪む。
エリアの背中が、未来の光景と重なった。
泣いていない静かな顔。
自分から離れていく足音。
あなたは、未来ばかり見ていた。
ケルは頭を押さえた。
違う。
そうならないためにやっているんだ。
そうならないために、僕は未来を見なければならない。
彼はエリアを追いかけなかった。
代わりに、祖父の家へ戻った。
もっと読まなければならない。
もっと見なければならない。
大きな災いの根を探さなければならない。
そして、エリアを失う未来を消さなければならない。
夕暮れの村に、教会の鐘が鳴った。
その音はまだ澄んでいた。
けれどケルには、いつか歪む鐘の音が、その奥で静かに待っているように聞こえた。