玲は『四畳半銀河』の原稿を開いた。
三十七ページ目。
物語が止まった場所。
主人公は、四畳半の部屋の中で、開かない窓を見つめている。
玲は、その続きを書こうとした。
指はまだ重い。
言葉はすぐには出てこない。
それでも玲は、白い余白に一文だけ打った。
窓の外では、雨が降っていた。
ありふれた一文。
何の変哲もない一文。
だが、それは十年ぶりに『四畳半銀河』へ書き足された言葉だった。
玲は画面を見つめた。
胸の奥で、何かがかすかに鳴った。
どくん。
終末の鼓動。
いや、違う。
それはもしかすると、再び動き出した物語の心音だったのかもしれない。
その夜、玲は浅い眠りの中で、灰色の部屋を歩いていた。
部屋は自分の部屋であり、見知らぬ部屋でもあった。
壁も床も天井も、すべて灰色。
窓の外も灰色。
置かれている家具も、本も、紙も、すべて色を失っている。
部屋の中央に、黒い封筒が五通並んでいる。
その向こうに、小さな火があった。
蝋燭の炎のように細い火。
今にも消えそうで、けれど確かに揺れている。
玲はそれに近づいた。
火のそばに、黒衣の人物が立っていた。
昨日の夢より近い。
顔はまだ見えない。
帽子の影、あるいはヴェールの影に隠れている。
黒衣の人物は、火を見ていた。
玲を見ることなく、静かに言った。
「寒い部屋には、火が要ります」
玲は尋ねようとした。
これは何の火だ。
だが、声が出ない。
黒衣の人物は、玲の問いを聞いたかのように続けた。
「けれど、燃やすものを間違えてはいけません」
炎が揺れた。
その光の中で、玲は一瞬、黒衣の人物の口元を見た。
血の気のない白い顔。
黒に近い唇。
けれど表情は、怖いほど穏やかだった。
「まだ、その時ではありません」
そう言って、黒衣の人物は火を手で覆った。
玲は目を覚ました。
部屋は暗い。
机の上のパソコンはスリープしている。
五通の黒い封筒が、その横に並んでいる。
玲はベッドの中で、夢の言葉を反芻した。
燃やすものを間違えてはいけません。
まだ、その時ではありません。
やがて朝が来た。
雨は止んでいなかった。
窓の外は灰色。
玲は起き上がり、玄関へ向かった。
五通目まで来た。
ならば、六通目も届く。
それはもう、恐怖というより、決められた儀式のようだった。
郵便受けを開ける。
黒い封筒があった。
昨日よりさらに重い。
玲は取り出した。
封筒の表面に触れた瞬間、今度は冷たさよりも圧力を感じた。
何か巨大なものが、遠くから押し寄せてくるような重み。
宛名には、こう書かれていた。
終わりを恐れる者 様
その文字を読んだ瞬間、部屋の奥で、古い原稿の束が崩れる音がした。
第六章 終わりを恐れる者
部屋の奥で、紙の崩れる音がした。
どさ。
それは大きな音ではなかった。
本棚が倒れたわけでもない。
家具が壊れたわけでもない。
ただ、古い原稿の束が重みに耐えきれず、少しずれ落ちただけの音。
それなのに玲には、どこか遠い場所で山が崩れたように聞こえた。
玄関に立ったまま、玲は六通目の封筒を握っていた。
終わりを恐れる者 様
宛名の文字は、これまでより濃かった。
黒いインクではなく、何かを焦がした煤で書かれているようだった。
紙に染み込むというより、封筒の表面に焼きついている。
玲は振り返った。
部屋の奥で、押し入れの前に出していた段ボール箱が口を開けている。
そこから取り出した原稿の束が、床に崩れていた。
白い紙。
黄ばんだ紙。
赤ペンの入った紙。
何度も推敲した跡のある紙。
その一部が、床に散らばっている。
まるで、何かから逃げ出そうとしたみたいだった。
玲は靴を脱ぎ、封筒を持ったまま部屋へ入った。
原稿を拾おうとして、手が止まる。
一枚の紙が目に入った。
そこには、昔の玲が書いたメモがあった。
ラスト案:主人公は部屋を出る。
でも、外も銀河だったと気づく。
玲はその文字を見つめた。
覚えていなかった。
そんな結末を考えていたことを、完全に忘れていた。
四畳半の部屋から出られない主人公。
その主人公が最後に部屋を出る。
そして、外の世界もまた銀河だったと気づく。
青臭い。
ひどく青臭い。
けれど、そのメモを見た瞬間、玲の胸に鈍い痛みが走った。
昔の自分は、ちゃんと出口を考えていた。
物語を閉じ込めるためではなく、外へ出すために書いていた。
なのに玲は、その物語を終わらせなかった。
終わりを書くのが怖かったからだ。
終わらせてしまえば、評価される。
終わらせてしまえば、落ちるかもしれない。
終わらせてしまえば、つまらない作品だったと分かってしまう。
終わらせてしまえば、自分には才能がないと証明されてしまう。
だから玲は、終わらせなかった。
未完なら、まだ可能性のままでいられる。
いつか書く。
いつか完成させる。
いつか応募する。
いつか誰かに読まれる。
その「いつか」の中にいれば、夢は死なない。
そう思っていた。
でも、死なない夢は、腐る。
一通目の言葉が戻ってくる。
開けなかったものは、腐るんですよ。
玲は六通目の封筒を机に置いた。
封筒は重かった。
机に置くと、低い音がした。
ごとん。
紙の音ではない。
石か、骨か、何かもっと古いものを置いたような音だった。
玲は蝋封を見た。
紋章は、これまでよりはっきり見えた。
枝。
いや、牙。
いや、割れた扉。
見れば見るほど、形が変わる。
玲は封を切った。
中には白い紙が一枚。
いつも通り。
けれど、その紙は重かった。
玲は両手で開いた。
そこには、こう書かれていた。
終わらせなかったものが、あなたを終わらせに来ます。
玲は、しばらく呼吸ができなかった。
それは脅しではなかった。
予言でもなかった。
事実だった。
終わらせなかった小説。
終わらせなかった夢。
終わらせなかった後悔。
終わらせなかった言葉。
終わらせなかった自分。
それらは、何も言わずに玲の生活の中へ染み出していた。
朝起きることが重くなる。
会社へ行くことが重くなる。
人の成功を見ることが苦しくなる。
他人の物語を書くことが虚しくなる。
部屋が寒くなる。
世界が灰色になる。
言葉が出なくなる。
それは、突然の破滅ではない。
ゆっくりとした終わりだった。
毎日少しずつ、玲を内側から終わらせていくものだった。
スマートフォンが鳴った。
会社のチャット通知だった。
今日の十時までに提出する予定の資料について、上司から確認が入っている。
玲は画面を見た。
返さなければならない。
だが、指が動かなかった。
出社しなければならない。
だが、身体が動かなかった。
玲は床に座り込んだ。
散らばった原稿の上に、六通目の白い紙を置く。
終わらせなかったものが、あなたを終わらせに来ます。
その下に、昔のメモ。
ラスト案:主人公は部屋を出る。
でも、外も銀河だったと気づく。
玲は、両方の紙を見比べた。
終わり。
終わらせること。
終わること。
その二つは、似ているようで違うのだと、初めて思った。
終わるのは、押し流されること。
終わらせるのは、自分の手で扉を閉めること。
玲はずっと、その扉を閉めることを怖がっていた。
閉めた後に何もなかったらどうする。
誰にも必要とされなかったらどうする。
本当に才能がなかったらどうする。
書いたものが、自分のすべてを否定する証拠になってしまったらどうする。
だから終わらせなかった。
そして、終わらせなかったものに、少しずつ終わらされていた。
玲は会社に休みの連絡を入れた。
体調不良のため、本日お休みをいただきます。
ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
送信してから、すぐに罪悪感が押し寄せた。
けれど、今日は行けなかった。
会社ではなく、この部屋にいなければならない気がした。
六通の封筒。
散らばった原稿。
『四畳半銀河』。
灰色の部屋。
そして、見えないところから押し寄せてくる終わり。
玲は、初めて逃げるのをやめたかった。
昼前、雨は止んだ。
けれど空は晴れなかった。
窓の外には、低い雲が残っている。
玲は床に散らばった原稿を一枚ずつ拾った。
読みながら、順番を揃える。
若い自分の文章は、やはり下手だった。
でも、ところどころに光があった。
自分でそう思うのは、少し恥ずかしい。
けれど確かに、光があった。
たとえば、主人公が四畳半の天井を見上げて、そこに星座を見つける場面。
隣の部屋の生活音を、別の星から届く信号のように聞く場面。
夜中に部屋の隅で、昔捨てたはずの夢が小さな獣の姿でうずくまっている場面。
玲は読みながら、自分が何を書きたかったのかを少しずつ思い出した。
これは、部屋から出られない人の話ではない。
部屋の中に閉じ込められた人が、それでも世界を見つけ直す話だった。
外へ出るかどうかだけではない。
世界をもう一度、物語として見られるかどうか。
玲はノートパソコンを開いた。
『四畳半銀河』の原稿ファイルを開く。
三十七ページ目。
昨夜、十年ぶりに書き足した一文がある。
窓の外では、雨が降っていた。
玲はその続きを書こうとした。
けれど、すぐに手が止まった。
終わりを書かなければならない。
いつかではなく、今。
うまく書けるかどうかではない。
傑作になるかどうかでもない。
誰かに認められるかどうかでもない。
まず、終わらせる。
それが怖かった。
六通目の封筒を見た。
終わらせなかったものが、あなたを終わらせに来ます。
玲は息を吸った。
そして、書いた。
窓の外では、雨が降っていた。
けれど、その雨は空からではなく、部屋の内側から降っているようだった。
そこでまた止まる。
でも、止まった場所は昨日より一行先だった。
玲は画面を見つめた。
一行。
たった一行。
それでも、終わっていないものに向かって一歩踏み込んだ気がした。
午後、眠気が襲ってきた。