けれど、どこか懐かしかった。
その獣は、自分を襲いに来たのではない。
自分の中で、ずっと噛み殺されていたものだった。
狼は、机の上の封筒を見た。
一通目。
二通目。
三通目。
四通目。
五通目。
六通目。
そして七通目。
狼は七通目の封筒に近づき、牙でその端を噛んだ。
黒い紙に、裂け目が入る。
その音で、玲の胸の奥の鎖が少し緩んだ気がした。
黒衣の人物は、静かに言った。
「獣を殺してはなりません」
玲は狼を見た。
「では、どうすれば」
「鎖を焼くのです」
鎖。
玲は、自分の胸元を見た。
目には見えない。
けれど確かに、そこから狼へ繋がる重い鎖がある気がした。
どうせ無理だ。
今さら遅い。
才能がない。
恥をかくくらいなら書かない方がいい。
終わらせなければ、失敗したことにはならない。
それらの言葉が、鎖の輪になっている。
玲はライターを見た。
火は消えている。
「今、燃やすのか」
黒衣の人物は首を振った。
「まだ、七通目です」
「九通あるのか」
玲がそう言うと、黒衣の人物は答えなかった。
ただ、わずかに微笑んだように見えた。
顔は影に隠れているのに、なぜかそう分かった。
「終わりは、一晩では届きません」
その声は、夜の底に水滴が落ちるように静かだった。
「けれど、今夜覚えておいてください」
黒衣の人物は、七通目の白い紙を指した。
燃やすものを、間違えないでください。
「燃やすべきは、あなた自身ではありません」
玲は、ゆっくりと頷いた。
黒衣の人物は一礼した。
「では、また」
「待って」
玲は思わず声を上げた。
「あなたは、何なんだ」
黒衣の人物は、玄関の影の中で足を止めた。
しばらく沈黙した後、こう言った。
「夜に配る者です」
「何を」
「終わりを」
玲は何も言えなかった。
「ただし、破滅ではございません」
黒衣の人物は、少しだけ顔を上げた。
帽子の影の奥に、白い輪郭が見えた。
月明かりを塗ったような顔。
黒に近い唇。
「次の物語のための、場所でございます」
ちりん。
鈴の音がした。
瞬きをした瞬間、黒衣の人物はいなくなっていた。
玄関の鍵は閉まったまま。
ドアチェーンもかかっている。
部屋には、玲と、七通の封筒と、黒い狼だけが残っていた。
いや。
狼も、もういなかった。
机の下には、ただ影があるだけだった。
しかし、床には一本だけ、黒く焦げた鎖の欠片のようなものが落ちていた。
玲はそれを拾おうとした。
指先が触れる前に、それは灰になって崩れた。
玲はキッチンのシンクに置いた原稿を見た。
燃やさなくてよかった。
初めて、そう思った。
原稿は敵ではない。
夢も敵ではない。
怒りも、獣も、敵ではない。
敵は、それらを閉じ込めていた古い結末だった。
玲は机に戻った。
ノートパソコンを開く。
『四畳半銀河』の続き。
手は震えていた。
けれど、今夜は書ける気がした。
玲は新しい行に、こう打った。
部屋の隅に、黒い狼がいた。
それは彼を喰らうためではなく、彼が捨てた牙を返すために現れた。
打った瞬間、胸の奥で何かが熱を持った。
怖い。
でも、書きたい。
玲は続けた。
狼の首には鎖が巻かれていた。
鎖の一つ一つには、彼が自分に言い聞かせてきた結末が刻まれていた。
言葉が出てくる。
速くはない。
美しくもないかもしれない。
それでも、出てくる。
玲は書き続けた。
自分の怒りを書く。
悔しさを書く。
恥を書く。
まだ終わりたくないという、みっともないほど生々しい願いを書く。
外が夜になっていく。
街灯が点き、隣室のテレビが消え、アパート全体が静かになる。
玲は書いた。
二ページ。
三ページ。
四ページ。
途中で何度も手が止まった。
そのたびに、七通目の白い紙を見た。
燃やすものを、間違えないでください。
玲は、自分を燃やす代わりに、言葉を燃やした。
古い結末を、一つずつ。
どうせ無理だ。
玲は書いた。
無理でも、書く。
今さら遅い。
玲は書いた。
遅くても、始める。
才能がない。
玲は書いた。
才能があるかどうかは、終わらせてから考える。
恥をかくくらいなら書かない方がいい。
玲は書いた。
恥をかいても、書かなかった自分よりはましだ。
終わらせなければ、失敗したことにはならない。
玲は書いた。
終わらせなければ、生きたことにもならない。
そこまで書いたとき、玲は手を止めた。
画面の白い光が、部屋を照らしている。
机の上の七通の封筒は、少しだけ色が薄くなっているように見えた。
黒の中に、灰が混ざったようだった。
玲は椅子にもたれた。
疲れていた。
けれど、ただ消耗した疲れではなかった。
久しぶりに、何かを使った疲れだった。
声。
怒り。
言葉。
火。
玲は、朝まで眠らずに書いた。
完全ではない。
まとまってもいない。
矛盾もある。
下手なところも多い。
それでも『四畳半銀河』は、止まっていた三十七ページ目を越えて、五十ページまで進んでいた。
夜明け前、玲はようやくベッドに倒れ込んだ。
眠りに落ちる寸前、机の上の七通目の封筒が微かに震えた。
中から、獣の息遣いが聞こえた。
だが今度は、怖くなかった。
狼は、遠くで吠えた。
その声は、終末を告げる遠吠えのようであり、夜明けを呼ぶ声のようでもあった。
眠りの中で、玲は灰の大地を歩いていた。
昨日見た場所。
赤黒い空。
焼けた紙。
遠い雷。
けれど今夜、灰の地平線には、小さな光があった。
最初は火かと思った。
けれど違った。
それは、灰の中から出た小さな芽だった。
淡い緑。
この灰の大地に、色がある。
玲は膝をついた。
芽のそばに、八通目の黒い封筒が置かれている。
封筒は、これまでのものより少し薄かった。
黒い紙の端に、ほんのわずか、金色の光が滲んでいる。
宛名には、こう書かれていた。
まだ作りたい者 様
目が覚めると、朝だった。
机の上のパソコンはついたまま。
画面には、夜通し書いた原稿が残っている。
窓の外は、雨上がりだった。
玲は起き上がり、玄関へ向かった。
郵便受けを開ける。
黒い封筒があった。
八通目。
夢で見たものと同じように、黒い紙の端に、かすかに金色の光が滲んでいた。
宛名には、やはりこう書かれていた。
まだ作りたい者 様
玲は、初めてその封筒を恐怖だけではなく見つめた。
掌の中で、八通目はほんの少し温かかった。