そこに何が入っているか、玲は知っている。
未完の原稿。
書きかけの第一章。
設定メモ。
登場人物の名前。
夜中に勢いで書いた恥ずかしい台詞。
物語になる前に朽ちていった断片たち。
開ければ、昔の自分がそこにいる。
今よりずっと下手で、ずっと青臭く、ずっと本気だった自分が。
それを見るのが怖かった。
玲はパソコンを閉じた。
机の上の黒い封筒を見た。
「何なんだよ」
小さく呟いた。
返事はなかった。
時計の針だけが進んでいた。
玲は封筒を開けることも、捨てることもできず、机の引き出しにしまった。
見えなければ、ないのと同じだ。
そう思った。
それは玲がこの十年で覚えた、最も役に立つ生き方だった。
見ない。
開けない。
考えない。
終わらせない。
そうすれば、何も起きない。
少なくとも、その夜まではそう信じていた。
玲はシャワーを浴び、コンビニで買った弁当を半分だけ食べ、ベッドに倒れ込んだ。
眠りは浅かった。
夢の中で、玲は四畳半の部屋にいた。
ただし、その部屋は見覚えのある部屋ではなかった。
天井が高すぎた。
壁が遠すぎた。
畳の目が、地平線のようにどこまでも伸びていた。
部屋の真ん中に、黒い封筒が落ちていた。
玲はそれを拾おうとした。
拾う前に、封筒の中から音がした。
どくん。
心臓のような音。
どくん。
もう一度。
封筒は紙のはずなのに、内側で何かが脈打っている。
玲は後ずさった。
天井の隅で、染みのようなものがゆっくり広がっていた。
それは枝に似ていた。
黒い枝。
葉のない枝。
部屋の天井を這い、壁へ伸び、床の下へ根を下ろしていく。
その枝の向こうから、遠い声が聞こえた。
誰かが叫んでいる。
一人ではない。
たくさんの声だった。
怒号。
嘆き。
笑い声。
泣き声。
昔の自分の声。
未来の自分の声。
書けなかった登場人物たちの声。
それらが重なり、九つに裂けた世界を震わせていた。
玲は耳を塞いだ。
けれど声は、耳の外ではなく、胸の内側で鳴っていた。
目が覚めた。
部屋は暗かった。
窓の外では、まだ夜が残っていた。
玲は息を切らしていた。
寝汗でシャツが背中に貼りついている。
机の引き出しを見た。
閉まっている。
黒い封筒は、そこにあるはずだった。
玲はしばらく迷ってから、ベッドを出た。
引き出しを開ける。
黒い封筒は、確かにそこにあった。
ただし、置いた時よりも少しだけ重くなっている気がした。
玲は笑った。
疲れているだけだ。
そう思おうとした。
そのとき、封筒の表の文字が目に入った。
九枝玲 様。
その名前の下に、細い文字が一行増えていた。
昼間には、なかったはずの文字。
玲は息を止めた。
そこには、こう書かれていた。
まだ開けていない者へ
玲は封筒を落とした。
床に落ちた音は、紙の音ではなかった。
何か小さな石が、部屋の底に沈むような音がした。
その夜、玲は朝まで眠れなかった。
そして翌朝。
郵便受けには、二通目の黒い封筒が届いていた。
第二章 二通目の宛名
二通目の黒い封筒は、一通目よりも重かった。
玲は、郵便受けの前でしばらく動けなかった。
朝のアパートの廊下には、いつものように誰かの生活音がしていた。
上の階で洗濯機が回る音。
隣室の鍵が閉まる音。
遠くで子供が泣く声。
階段を下りていく革靴の乾いた足音。
世界は、いつも通りだった。
それなのに、郵便受けの底に沈んでいる黒い封筒だけが、そこに夜を残している。
玲は手を伸ばした。
指先が封筒に触れた瞬間、冷たさが皮膚の下まで入り込んできた。
昨日と同じ黒。
同じ質感。
同じ蝋封。
同じ紋章。
枝にも見える。
狼の牙にも見える。
ひび割れた羽にも見える。
ただし、宛名は違っていた。
昨日は、九枝玲 様。
今日は違った。
開けなかった者 様
玲は思わず、周囲を見回した。
誰もいない。
階段の踊り場にも、廊下の先にも、人影はなかった。
郵便受けの銀色の扉が、朝の光を鈍く反射しているだけだった。
玲は封筒を鞄に入れた。
入れた瞬間、鞄の底が少し沈んだ気がした。
「……馬鹿らしい」
声に出してみた。
けれど、その声はひどく頼りなかった。
馬鹿らしい。
ただの悪戯だ。
誰かが面白がっているだけだ。
あるいは、会社の誰かが仕掛けたドッキリ。
昔の知り合い。
ネットで住所を調べた誰か。
それとも、昨日の封筒を見た自分が、勝手に二通目を夢見ているだけか。
玲は、何度もそう考えた。
けれど鞄は重かった。
昨日までと同じ鞄のはずなのに、肩に食い込む。
駅までの道のりが、いつもより長く感じた。
六月の朝だった。
空は白く、湿度が高く、街路樹の葉は生ぬるい風に揺れていた。
それなのに玲の指先だけが、冬の水に浸けたように冷えていた。
駅のホームで電車を待っている間、玲はスマートフォンで検索した。
黒い封筒 差出人なし
黒い封筒 蝋封 悪戯
宛名が変わる 封筒
夜 黒い手紙
出てきたのは、結婚式の招待状、怪談まとめ、文具店の商品ページ、通販サイトの広告ばかりだった。
玲が受け取ったものと同じ話は、どこにもなかった。
検索窓に、最後にこう打った。
開けなかったものは腐る
検索結果は、意味のない言葉の断片で埋まった。
誰かのブログ。
園芸の記事。
冷蔵庫の掃除方法。
未読メールを片づけるライフハック。
玲は画面を閉じた。
電車が来た。
乗り込む人々の流れに押され、玲も車内に入った。
車内広告には、転職サービスのコピーが踊っていた。
まだ間に合う。新しい自分へ。
玲は目を逸らした。
その隣には、オンライン講座の広告があった。
夢を仕事にする、最後のチャンス。
玲はさらに目を逸らした。
吊革につかまりながら、鞄の中の黒い封筒の重みを感じていた。
開けなかった者 様。
宛名の文字が、頭の中に何度も浮かぶ。
開けなかった。
何を。
封筒か。
古いパソコンのフォルダか。
昔の原稿か。
あの頃の自分か。
考えたくなかった。
玲はイヤホンを耳に入れた。
音楽アプリを開く。
最近流行っている曲のプレイリストを再生する。
けれど、音は耳の表面を滑っていくだけだった。
歌詞も、メロディも、誰かの感情も、玲の中に入ってこない。
まるで透明な膜が張られているようだった。
玲はすぐに再生を止めた。
無音になった耳の中で、昨日の夢の音が蘇る。
どくん。
封筒の中で鳴っていた鼓動。
どくん。
それは自分の心臓の音だったのかもしれない。
けれど玲には、もっと遠い場所の音に思えた。
何か巨大なものが、眠りから覚めようとしている音。
会社に着くと、玲はまず監視カメラのことを考えた。
アパートの郵便受けにカメラはない。
エントランスにもない。
古いアパートだから、防犯らしい防犯はほとんどない。
誰が封筒を入れたのか、確かめようがなかった。
では、郵便局はどうか。
差出人も切手も消印もない。
郵便物として配達されたものではない。
誰かが直接入れたと考えるしかない。
誰か。
誰だ。
玲はパソコンを開きながら、そんなことばかり考えていた。
そのせいで、午前中の作業はほとんど進まなかった。
「九枝さん、さっき送った修正案、見てもらえました?」
隣の席の後輩が声をかけてきた。
玲は画面を見た。
修正案どころか、メールを開いてすらいなかった。
「あ、ごめん。今見る」
「大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
「寝不足」
玲は短く答えた。
後輩はそれ以上聞かなかった。
会社の人間関係は、そのくらいがちょうどよかった。
心配しすぎない。
踏み込まない。
互いの深い部分に触れない。
玲も、誰にも触れてほしくなかった。
昼過ぎ、クライアントから電話が来た。
先週提出したコピーが、また修正になったらしい。
「もう少し、希望感が欲しいんですよね」
電話口の声は明るかった。
「現状の課題は分かるんですけど、最終的には前向きになれる感じというか。読んだ人が、明日から頑張ろうって思えるような」
玲はメモを取りながら答えた。
「承知しました。暗くなりすぎないように、再調整します」
希望感。
前向き。
明日から頑張ろう。
玲は電話を切った後、しばらくメモを見ていた。
そこには、自分の字でこう書かれていた。
希望感を追加。
玲はその文字を見つめて、少し笑った。
自分の文章には、他人のための希望ならいくらでも足せる。
指定されたトーンに合わせて、明るい言葉を選ぶこともできる。
雨上がり、未来、可能性、一歩踏み出す、あなたらしく、まだ間に合う。
けれど、それらの言葉は玲自身には少しも効かなかった。
薬のラベルだけを並べているようなものだった。
中身の入っていない瓶。
色だけ綺麗な空の容器。
玲は、鞄の中の黒い封筒を思い出した。
開けなかった者 様。
その宛名だけは、中身があった。
嫌になるほど。
夕方、玲はトイレの個室で二通目の封筒を開けようとした。
会社の席では無理だった。
会議室も、誰かが使っていた。
休憩スペースには人がいた。
結局、玲はトイレにこもった。
馬鹿馬鹿しい。
三十歳の男が、会社のトイレで黒い封筒を開けるかどうか迷っている。
そう思ったら、少しだけ笑えた。
笑えたのに、指は震えていた。
黒い蝋に爪を立てる。
昨日と同じように冷たい。
いや、昨日より冷たい。
玲はゆっくり封を切った。
中には白い紙が一枚だけ入っていた。
薄い紙だった。
便箋というより、古い本の遊び紙のような質感。
触ると、かすかに湿っていた。
紙には、一行だけ書かれている。
未練は、湿気を吸います。
玲は何度も読み返した。
未練。
湿気。
吸う。