第三章 夢を閉じた者
三通目の黒い封筒を手にした瞬間、玲はそれを落としそうになった。
重い。
昨日の二通目より、明らかに重かった。
封筒の中には白い紙が一枚しか入っていないはずだった。
少なくとも、一通目も二通目もそうだった。
それなのに三通目は、薄い封筒というより、小さな本を持っているような重みがあった。
玲は廊下に立ったまま、宛名を見つめた。
夢を閉じた者 様
夢を閉じた者。
その言葉は、責めているようにも、ただ事実を告げているようにも見えた。
玲は封筒を握りしめたまま部屋へ戻った。
玄関の扉を閉める。
鍵をかける。
その音が、いつもより大きく響いた。
会社へ行かなければならない時間だった。
シャワーを浴びて、シャツを着替えて、駅まで歩いて、満員電車に乗って、昨日と同じようにパソコンの前に座らなければならない。
けれど玲は、しばらく玄関に立ったまま動かなかった。
三通目の封筒が、手の中で冷えている。
夢を閉じた者 様。
玲は、ふと笑った。
夢なんて、とっくに閉じたと思っていた。
閉じたから今がある。
小説家になれなかったから会社員になった。
原稿を書けなくなったから資料を書いている。
物語を諦めたから、生活を選んだ。
それの何が悪い。
誰だってそうだろう。
十代や二十代の頃に見ていた夢を、そのまま抱えて生きている人間の方が少ない。
大人になるとは、そういうものを一つずつ畳んでいくことではないのか。
玲はそう思おうとした。
けれど封筒の重さが、それを許さなかった。
閉じたのではなく、閉じ込めたのだと。
畳んだのではなく、押し込んだのだと。
そして今、その中身が湿気を吸い、腐り始めているのだと。
昨日読んだ一行が、頭の中で蘇る。
未練は、湿気を吸います。
玲は靴を脱ぎ、部屋に戻った。
机の上には、一通目と二通目の黒い封筒が並んでいる。
三通目をその横に置くと、机の天板がかすかに鳴った。
ぎし。
ただの木の机が軋んだだけだった。
それなのに玲には、遠くで大地が沈んだように聞こえた。
封筒は三通になった。
三つの黒い長方形。
机の上に、夜の欠片が並んでいる。
玲は三通目の蝋封に指をかけた。
枝のような、牙のような、ひび割れた羽のような紋章。
爪で押すと、蝋は思ったより簡単に割れた。
中には、やはり白い紙が一枚だけ入っていた。
なぜ、こんなに重かったのか。
玲は封筒の中を覗いた。
何もない。
白い紙以外には。
紙を開く。
そこには一行だけ書かれていた。
腐った夢は、よく燃えます。
玲はその文字を見つめた。
一通目。
開けなかったものは、腐るんですよ。
二通目。
未練は、湿気を吸います。
三通目。
腐った夢は、よく燃えます。
言葉が、少しずつ繋がっていく。
まるで誰かが、玲のために一つの手順書を書いているようだった。
開けなかったものが腐る。
未練が湿気を吸う。
腐った夢は燃える。
その次に何が来るのか、玲は考えたくなかった。
不意に、スマートフォンが鳴った。
会社からだった。
画面には上司の名前が出ている。
玲は少し迷ってから、電話に出た。
「九枝、今どこ?」
声は硬かった。
「すみません、少し体調が悪くて」
嘘ではなかった。
「今日、十時からの定例あるけど」
「分かってます。リモートで入ります」
「いや、今日は先方来るから出社って言ったよね」
言われた気もする。
言われていない気もする。
メールには書いてあったのかもしれない。
玲は机の上の黒い封筒を見ながら、口だけで謝った。
「すみません。すぐ向かいます」
「最近ちょっと抜けてるよ。大丈夫?」
大丈夫。
その言葉ほど、返答に困るものはない。
大丈夫ではないと言えば、何が大丈夫ではないのか説明しなければならない。
黒い封筒が届きます。
宛名が変わります。
手紙に夢が腐ると書いてあります。
昔の小説を開けません。
部屋に冬が来る気がします。
言えるわけがなかった。
「大丈夫です。すみません」
玲はそう言って、電話を切った。
大丈夫です。
その言葉は、この十年で玲が最も多く使った嘘かもしれない。
玲は黒い封筒を鞄に入れた。
一通目と二通目も、なぜか置いていく気になれなかった。
三通とも鞄に入れると、肩掛け部分が不自然に重くなった。
家を出る前に、玲は押し入れの段ボールを見た。
原稿・ノート類。
ガムテープは昨日のまま、黄ばんだ口を閉じている。
玲は見なかったことにして、部屋を出た。
会社に着いたのは、十時を少し過ぎていた。
会議室にはすでに全員が揃っていた。
クライアント二名。
上司。
デザイナー。
後輩。
そして一席だけ空いている。
玲が入ると、会話が一瞬止まった。
「すみません」
玲は頭を下げた。
上司は小さくため息をつき、何も言わなかった。
会議は、いつも通り進んだ。
次期キャンペーンの訴求軸。
ターゲットの課題。
導入文の調整。
ビジュアル案の方向性。
SNSでの展開。
ブランドストーリー。
玲はメモを取った。
けれど言葉が上滑りしていた。
誰かが「物語性」と言うたびに、鞄の中の黒い封筒が重くなる気がした。
誰かが「ユーザーの心を動かす」と言うたびに、玲の中で何かが冷えていった。
心を動かす。
自分の心さえ、もう動かせないのに。
「九枝さん、この導入コピーなんですけど」
クライアントの女性が資料を指した。
「ちょっと弱いんですよね。もっと、読み手が自分ごと化できるような」
玲は資料を見た。
そこには、自分が昨日書いたコピーが載っていた。
あなたの物語は、まだ終わっていない。
玲はそれを見て、息が止まりそうになった。
書いた記憶がなかった。
いや、書いたのは自分だ。
仕事として。
クライアントのために。
商品を売るために。
けれど、その一文が今、黒い封筒の言葉のように見えた。
あなたの物語は、まだ終わっていない。
「九枝さん?」
玲は顔を上げた。
全員がこちらを見ている。
「あ、すみません。ええと……もう少し具体的な体験に落とし込んで、感情の起点を作ります」
口が勝手に動いた。
クライアントは頷いた。
「そうですね。読んだ人が、あ、自分のことだって思えるように」
自分のこと。
玲は、資料の一文から目を逸らした。
会議が終わると、上司に呼ばれた。
「九枝、ちょっと」
廊下の端、給湯室の前。
上司は腕を組んでいた。
「最近、集中できてないよな」
玲は黙った。
「仕事量きつい?」
「いえ」
「じゃあ何?」
何。
玲は答えられなかった。
「別に責めたいわけじゃないけどさ。九枝、昔はもっと文章に熱あったよ。最近、なんか全部、無難にまとめてるだけって感じがする」
それは仕事の話だった。
でも、玲には自分の人生そのものを言われているように聞こえた。
無難にまとめてるだけ。
確かにそうだ。
玲は、夢も、失敗も、後悔も、何もかも無難にまとめて生きてきた。
破綻しないように。
人に迷惑をかけないように。
恥をかかないように。
期待しないように。
本気にならないように。
「すみません。立て直します」
玲はそう言った。
上司は少しだけ表情を和らげた。
「無理してるなら言えよ」
「大丈夫です」
まただ。
大丈夫です。
自分で言った瞬間、鞄の中で何かが軋んだ気がした。
昼休み、玲は会社を出て近くの公園に向かった。
小さな公園だった。
ベンチが三つ、滑り台が一つ、誰も使っていない砂場がある。
昼時なのに、人はほとんどいなかった。
玲はベンチに座り、鞄から三通の封筒を取り出した。
並べる。
一通目。
九枝玲 様。
まだ開けていない者へ。
二通目。
開けなかった者 様。
三通目。
夢を閉じた者 様。
三通目の封筒の中の紙を、もう一度開く。
腐った夢は、よく燃えます。
玲は、突然腹が立った。
何なんだ。
誰が書いている。
何を知っている。
腐った夢。
簡単に言うな。
玲は夢を捨てたわけではない。
むしろ、夢の方が自分を置いていったのだ。
新人賞には落ち続けた。
書いたものは誰にも読まれなかった。
同じように小説家を目指していた友人たちは、いつの間にか別の仕事へ進んだり、結婚したり、創作をやめたりした。
玲だけが、やめたと言えないまま残った。
応募もしない。
書きもしない。
けれど、諦めたとも言わない。
それが一番みっともないことくらい、玲自身が一番よく知っていた。
「燃えたら何だよ」
玲は小さく言った。
誰もいない公園で、黒い封筒に向かって。
「燃えたら終わりだろ」
風が吹いた。
生ぬるい風だった。
それなのに、封筒の周りだけが冷えていた。
そのとき、公園の隅で小さな音がした。
ちりん。
鈴のような。
鐘のような。
金属が遠くで触れ合うような音。
玲は顔を上げた。
誰もいない。
ブランコがわずかに揺れていた。
風のせいだ。
そう思った。
けれど、ブランコの下には影があった。
人の影のように細長い。
黒い服を着た誰かが、さっきまでそこに立っていたような影。
玲は目をこすった。
次に見た時、影は消えていた。
代わりに、ベンチの上の三通目の白い紙が、少しだけめくれていた。
そこに書かれた一行の下に、かすかなインクの滲みが見えた。
玲は紙を近づけた。
新しい文字ではない。
ただ、インクの滲みが、別の言葉のように見えた。
まだ、火は残っています。
玲は息を呑んだ。
瞬きをする。
もう一度見る。
滲みはただの滲みに戻っていた。
会社へ戻った玲は、午後をほとんど覚えていない。
メールを返し、資料を直し、会議に入り、誰かに謝った。
身体だけが仕事をしていた。
心は、どこか別の場所にいた。
夜、部屋に帰ると、玲はまっすぐ押し入れの前に座った。
段ボール箱。
原稿・ノート類。
玲はカッターを持った。
黄ばんだガムテープに刃を入れる。