びり、と乾いた音がした。
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
箱の中には、思ったより多くの紙が入っていた。
大学ノート。
コピー用紙。
印刷した原稿。
赤ペンで直したページ。
応募用に整えた原稿の束。
書き出しだけのメモ。
登場人物表。
一番上に、クリアファイルがあった。
中には、表紙だけ印刷された原稿。
四畳半銀河
タイトルの下に、昔の自分の名前がある。
九枝玲。
今と同じ名前なのに、別人のようだった。
玲は原稿を取り出した。
紙は少し波打っていた。
湿気を吸っている。
端が黄ばんでいる。
けれど、文字はまだ読めた。
玲は一ページ目をめくった。
最初の一文。
この部屋には、銀河がある。
夢の中で見た一文と同じだった。
玲は、その一文を声に出して読んだ。
「この部屋には、銀河がある」
声は小さかった。
十年前の自分が、部屋のどこかで顔を上げたような気がした。
玲は読み進めた。
下手だった。
比喩が多すぎる。
台詞が硬い。
展開が遅い。
自意識が透けている。
いかにも、若い人間が深刻そうに書いた文章だった。
恥ずかしかった。
でも、不思議と嫌いにはなれなかった。
そこには、まだ何も諦めていない人間の熱があった。
うまく書けるかどうかではない。
誰に読まれるかでもない。
ただ、書かなければ息ができないという必死さがあった。
玲はページをめくる手を止めた。
途中から、文章は途切れていた。
三十七ページ目。
そこから先は、白紙だった。
登場人物は部屋を出られないまま止まっている。
物語は、銀河の入口で立ち尽くしたまま終わっている。
終わっている、というより。
終わらされていない。
玲は三通の黒い封筒を見た。
机の上に並んだ封筒は、さっきより少し軽くなった気がした。
いや、違う。
封筒が軽くなったのではない。
自分の中に、その重さが移ったのだ。
玲は古いノートパソコンを開いた。
時間がかかる。
画面が立ち上がる。
デスクトップのフォルダ。
四畳半銀河
玲は、今度こそダブルクリックした。
フォルダが開いた。
中には、古いファイルが並んでいる。
第一章.docx
設定メモ.txt
登場人物.docx
プロット案_修正.docx
プロット案_本当の修正.docx
プロット案_これで最後.docx
玲は少し笑った。
これで最後。
最後ではなかった。
ファイルを開く。
画面に、昔の文章が表示される。
この部屋には、銀河がある。
玲はその一文を見たまま、長い時間動かなかった。
背後で、黒い封筒がかすかに鳴った気がした。
紙が擦れる音。
それは風の音にも、誰かが笑った声にも聞こえた。
その夜、玲は初めて夢を見なかった。
ただ、眠る直前に、どこか遠くで低い音を聞いた。
どくん。
どくん。
終末の鼓動は、昨日より近かった。
けれどその音はもう、玲を怯えさせるだけではなかった。
何かが終わろうとしている。
そして、何かが目を覚まそうとしている。
翌朝。
玲は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
部屋は薄暗い。
机の上には、開いたままの古いノートパソコン。
画面には『四畳半銀河』の原稿。
その横に、三通の黒い封筒。
玲は起き上がった。
郵便受けを見に行く前から、分かっていた。
四通目は届いている。
廊下に出る。
郵便受けを開ける。
黒い封筒が一通、底に沈んでいる。
昨日より、さらに重い。
玲はそれを手に取った。
宛名を読む。
声を失くした者 様
封筒の奥から、凍てつく風のような冷たさが、玲の掌に広がった。
第四章 声を失くした者
四通目の封筒は、冷たかった。
重い、というより、冷たい。
玲が掌に乗せると、封筒の黒い紙からじわじわと温度が奪われていく。
六月の朝の湿った空気の中で、それだけが真冬の底から届いたようだった。
声を失くした者 様
宛名は、そう書かれていた。
玲はしばらく、その文字から目を離せなかった。
声。
玲は声を失くした覚えなどなかった。
毎日、会社で話している。
会議でも話す。
電話にも出る。
謝罪もする。
説明もする。
確認します、調整します、承知しました、申し訳ございません。
玲の声は、毎日どこかで使われている。
なのに、封筒は言った。
声を失くした者。
それが妙に正しい気がしたから、玲は腹が立った。
「勝手に決めるなよ」
郵便受けの前で、玲は小さく呟いた。
朝の廊下に、声はすぐ吸い込まれた。
誰も返事をしなかった。
部屋に戻ると、机の上には三通の封筒と、開いたままの古いノートパソコンがある。
画面には、未完の小説『四畳半銀河』の原稿。
この部屋には、銀河がある。
その一文が、白い画面の上に残っていた。
玲は四通目の封筒を机に置いた。
置いた瞬間、パソコンの画面が一瞬だけ暗くなった。
停電かと思った。
けれど照明はついている。
冷蔵庫の低い音もしている。
パソコンだけが、一瞬、瞬きをしたように暗くなったのだ。
玲は椅子に座った。
封筒の蝋を割る。
今朝の蝋封は、昨日までより固かった。
爪を立てても割れず、玲はカッターを使った。
黒い蝋が砕けると、かすかな匂いがした。
煙の匂い。
火をつけた覚えなどないのに、紙が焦げる前のような匂いがした。
中には白い紙が一枚。
玲は開いた。
そこには、一行だけ書かれていた。
言わなかった言葉は、夜に根を張ります。
玲はその一文を、何度も読んだ。
言わなかった言葉。
そんなものは、数え切れないほどあった。
本当は嫌です。
本当は無理です。
本当は悔しいです。
本当は書きたいです。
本当は、まだ諦めていません。
本当は。
その言葉の先に続くものを、玲はいつも飲み込んできた。
飲み込めば、場は丸く収まる。
飲み込めば、波風は立たない。
飲み込めば、失敗した時に傷つかずに済む。
飲み込めば、自分でも自分の本心を知らずに済む。
そうやって飲み込んだ言葉は、消えたと思っていた。
けれど封筒は言う。
夜に根を張る、と。
玲は紙を机に置いた。
そのとき、パソコンの画面に表示された原稿の文字が、少しだけ滲んだように見えた。
目の疲れだと思った。
玲は瞬きをした。
文字は元に戻っていた。
けれど、部屋の中に細い音がしていた。
きい。
どこかで木が軋むような音。
古いアパートだから、壁や床が鳴ることは珍しくない。
それでも、その音は部屋の奥からではなく、もっと深い場所から聞こえる気がした。
押し入れの中。
机の下。
パソコンの内部。
あるいは、玲自身の胸の奥。
きい。
きい。
玲は足元を見た。
畳の目が、いつもより濃く見える。
一本一本の線が、細い根のように部屋の隅へ伸びている。
机のコードも、床に落ちた黒い充電ケーブルも、押し入れの段ボールからはみ出した古い原稿の端も、すべてがどこかへ繋がっているようだった。
玲は首を振った。
疲れている。
そう言い聞かせた。
会社へ行く支度をする。
シャツに袖を通し、ネクタイを締める。
鏡の中の自分は、いつもより青白かった。
目の下の影が深い。
唇の色も悪い。
「大丈夫」
玲は鏡に向かって言った。
声は出た。
出たのに、どこか他人のもののようだった。
会社へ向かう電車の中で、玲は四通目の一文を思い出していた。
言わなかった言葉は、夜に根を張ります。
スマートフォンの通知欄には、会社のチャットがいくつも溜まっている。
上司から。
後輩から。
クライアントから。
自動通知。
リマインダー。
玲は一つずつ開く。
返事を書く。
お疲れ様です。
承知しました。
確認いたします。
本日中に対応します。
ご指摘ありがとうございます。
文字はいくらでも出てくる。
だが、それは玲の声ではなかった。
会社の声。
社会人の声。
穏便に済ませるための声。
自分を守るための声。
本当に言いたいことは、その下で根を張っている。
会社に着くと、朝からトラブルが起きていた。
クライアントに提出した資料の中で、古いデータが使われていたらしい。
原因は、玲が差し替え依頼を見落としていたことだった。
会議室に呼ばれた。
上司と、デザイナーと、営業担当がいた。
「九枝、これ昨日確認したって言ってたよな」
上司が資料を机に置いた。
玲は資料を見た。
確かに、見た。
見たはずだった。
だが記憶が曖昧だった。
黒い封筒。
押し入れの段ボール。
『四畳半銀河』。
未練。
腐った夢。
それらに気を取られて、仕事の細部が抜け落ちていた。
「すみません」
玲は頭を下げた。
「すみませんじゃなくてさ。これ、先方かなり怒ってるよ」
「はい」
「はいじゃなくて、どうリカバリーするか言って」
玲は口を開いた。
説明しなければならない。
謝るだけでなく、原因と対応策を言わなければならない。
いつもの玲ならできた。
言葉を並べることは得意だった。
相手を納得させる順番に整えることもできた。
けれど、その時、声が出なかった。
喉の奥に何かが詰まっている。
根。
そんな言葉が浮かんだ。
言わなかった言葉が、喉の内側に根を張っている。
「九枝?」
上司が眉をひそめる。
玲は口を開けたまま、何も言えなかった。
本当は、言いたいことがあった。
最近眠れていない。
おかしな手紙が届く。
昔の原稿を開いた。
自分が何をしているのか分からない。
この仕事の文章には、いくらでも希望を書けるのに、自分には何も書けない。
もう疲れた。
でも、まだ何か書きたい。
そんな言葉が喉の奥で絡まっている。
だが、どれも会議室で言える言葉ではなかった。
結局、玲が絞り出したのは、いつもの一言だった。
「すみません。今日中に修正します」
上司は短く息を吐いた。
「頼むよ、本当に」