小説ラグナログ

終末の神話

届いた黒い封筒が、忘れようとしていた記憶を呼び戻す。紫の傘を差した少女との出会いが、燃え残っていた過去と僕を向き合わせる。世界樹が軋むように、終末は破滅ではなく、次の芽吹きの始まりだった。

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後日譚 次の物語

『ラグナロク』を書き始めてから、玲の生活が劇的に変わったわけではなかった。

相変わらず朝は眠い。

会社へ行くのは面倒だった。
メールは溜まる。
会議は長い。
クライアントの修正依頼は、時々理不尽だった。
帰宅すれば疲れている。
夕食はコンビニの弁当で済ませる日も多い。

何もかもが美しく整ったわけではない。

むしろ、以前より面倒になったこともあった。

見ないふりが、前より少しだけ下手になった。

自分が疲れていること。
悔しいこと。
まだ諦めきれていないこと。
誰かの成功を見て胸がざわつくこと。
本当はもっと書きたいのに、仕事を言い訳にしていること。

そういうものが、前よりもはっきり見える。

見えるようになったから、楽になったわけではない。

ただ、見えないまま腐らせるよりはましだった。

玲は毎晩、少しずつ書いた。

一行だけの日もあった。
三時間書ける日もあった。
何も書けず、画面だけ開いて閉じる日もあった。

けれど、ファイルを開くことだけは続けた。

『ラグナロク』。

そのタイトルを見るたびに、玲は九通の黒い封筒を思い出した。

開けなかったものは、腐るんですよ。

未練は、湿気を吸います。

腐った夢は、よく燃えます。

言わなかった言葉は、夜に根を張ります。

部屋が寒いのは、冬のせいではありません。

終わらせなかったものが、あなたを終わらせに来ます。

燃やすものを、間違えないでください。

灰の中に、次の物語が混ざっています。

これは破滅の物語ではない。

その九つの言葉は、玲の中で呪いではなく、階段のようになっていた。

夜の底へ降りるための階段。
そして、そこから朝へ戻るための階段。

ある夜、玲は『ラグナロク』の中で、黒衣の人物の場面を書いていた。

主人公の部屋に、黒い封筒が届く。
九日目の夜、黒衣の人物が現れる。
終わりを届ける。

それは玲自身の体験に似ていた。

似ていた、というより、ほとんどそのままだった。

それでも玲は、完全な実話として書くつもりはなかった。

小説にするなら、嘘が必要だと思った。

嘘というより、物語の形。

現実の痛みを、そのまま机の上に置くだけでは、読む人は触れられない。
けれど物語の器に入れると、誰かが自分の痛みとして持ち帰れることがある。

玲はそう思った。

だから、黒衣の人物に名前は与えなかった。

夜配り。

作中では、そう呼ばせた。

夜に終わりを配る者。

けれど、書きながら玲は何度も思った。

本当にそれだけなのだろうか。

あの人物は、郵便屋ではなかった。
悪魔でもなかった。
神でも、幽霊でも、占い師でもなかった。

もっと古いもの。

誰かの終わりに立ち会い、物語が灰になる瞬間を見届け、その灰の中から次の言葉を拾い上げる者。

玲は、黒衣の人物の描写を書いた。

その人は、郵便配達員には見えなかった。
黒い服は制服ではなく、喪服であり、祭服であり、どこか遠い国の舞台衣装のようでもあった。
顔は月明かりを塗ったように白く、唇は夜の果実のように暗かった。
彼は終わりを決める者ではない。
ただ、終わるもののそばに立ち、灰になるまで見届ける者だった。

玲はそこまで書いて、手を止めた。

彼。

そう書いてから、少し違う気がした。

男とも女ともつかない。

若いとも老いているとも言えない。

人間の形をしているが、人間の時間には属していない。

玲は「彼」を消そうとして、やめた。

読者には、そう見えるかもしれない。
玲にも、その時はそう見えていた。

でも、完全には分からない。

分からないままでいい。

玲は続けた。

名を尋ねても、夜配りは答えなかった。
ただ、鈴のような声で言った。
『名は、呼ばれる場所によって変わります』

そこまで書いた瞬間、部屋のどこかで、かすかな音がした。

ちりん。

玲は顔を上げた。

窓は閉まっている。
玄関にも誰もいない。
机の上に鈴などない。

けれど確かに、音がした。

玲はしばらく耳を澄ませた。

何も聞こえない。

ただ、冷蔵庫の低い音と、外を走る車の音だけ。

玲は画面に戻った。

偶然だ。

そう思うことにした。

けれど、胸の奥が少しだけ温かかった。

『ラグナロク』は、少しずつ形になっていった。

主人公は玲ではなかった。

名前も違う。
仕事も少し変えた。
部屋も四畳半にした。
封筒の言葉も、いくつか書き換えた。

それでも、中心にあるものは変わらなかった。

夢を閉じた人間の話。

終わらせられなかった物語に、少しずつ終わらされていく人間の話。

そして、終わりは破滅ではなく、次の物語のために場所を空けることなのだと知る話。

玲はその核だけは、決して動かさなかった。

ある日曜日、玲は久しぶりに部屋の掃除をした。

大がかりな掃除ではない。

床に落ちた紙を拾い、コンビニ袋を捨て、洗っていなかったマグカップを洗い、本棚の埃を少し払う。

押し入れの段ボールも整理した。

原稿・ノート類。

その箱は、もう押し入れの奥へ戻さなかった。

机の横に置くことにした。

いつでも開けられる場所。

その中から、古いノートを何冊か取り出した。

登場人物の名前だけが書かれたページ。
物語の断片。
比喩のメモ。
短編の冒頭。
使われなかった台詞。

どれも未熟だった。

けれど、どれも完全には死んでいなかった。

玲はそれらを読みながら、新しいメモを作った。

次に書きたいもの。

短編案。
散文案。
登場人物。
タイトルだけ。

思いつくままに書き出す。

驚くほどたくさんあった。

玲は、自分の中にもう何も残っていないと思っていた。

けれど残っていた。

湿気を吸い、形を失いかけ、腐りかけていたとしても、完全には消えていなかった。

それらは、火を待っていたのかもしれない。

消すための火ではない。

形を変えるための火を。

玲は、小さな瓶に入った灰を見た。

黒い灰。

古い結末の灰。

その瓶の横に、新しいメモを置く。

次の物語。

そう書いた。

その夜、玲は夢を見た。

灰の大地ではなかった。

そこは、広い劇場だった。

観客席は空っぽ。

舞台には、黒い幕が下りている。

玲は客席の一番後ろに立っていた。

天井は高く、古いシャンデリアがいくつも吊られている。
灯りは弱く、劇場全体が深い赤と金の影に沈んでいた。

舞台の中央に、一通の黒い封筒が置かれている。

玲はゆっくりと歩いていった。

舞台に上がる。

床板がわずかに軋む。

黒い封筒には宛名がなかった。

玲が手を伸ばす前に、舞台袖から声がした。

「それは、あなた宛てではございません」

玲は振り向いた。

黒衣の人物が、舞台袖の暗がりに立っていた。

いつもの黒い衣。
白い顔。
細長い鞄。

けれど今夜、その姿は少しだけ舞台に馴染んでいた。

まるで、最初から劇場に属する存在であるかのように。

「誰宛てなんですか」

玲は聞いた。

黒衣の人物は答えなかった。

その代わりに、客席の方を見た。

誰もいないはずの観客席。

けれど玲は、そこに無数の気配を感じた。

誰かが座っている。

姿は見えない。

でも確かに、いる。

開けられなかった手紙を持つ人。
終わらせられなかった夢を抱える人。
言えなかった言葉を喉に詰まらせた人。
灰色の部屋で、冬ではない寒さに震えている人。
自分を燃やす火と、古い物語を燃やす火の違いが分からなくなっている人。

観客席は空っぽではなかった。

玲の目には見えない人々で満ちていた。

「届くんですか」

玲は尋ねた。

「何が」

「俺が書いたものが」

黒衣の人物は、少しだけ首を傾けた。

「それは、私の配達ではございません」

「じゃあ、誰が」

「あなたが」

玲は何も言えなくなった。

黒衣の人物は、舞台の黒い封筒を指した。

「終わりは、私が届けることもございます」

その声は、劇場の奥まで静かに響いた。

「けれど、次の物語は、書いた者が届けるのでございます」

玲は封筒を見た。

宛名のない黒い封筒。

それはもう、玲を脅かすものではなかった。

これから誰かに届くかもしれない、物語の入れ物だった。

舞台の黒い幕が、ゆっくりと上がり始めた。

その向こうには、何もなかった。

白い光だけがある。

玲は目を細めた。

黒衣の人物の声が、耳元ではなく、胸の奥で聞こえた。

「お書きください」

玲は目を覚ました。

朝だった。

日曜日の朝。

窓から光が入っている。

部屋は静かだった。

玲はベッドから起き上がり、すぐに机に向かった。

ノートパソコンを開く。

『ラグナロク』のファイルを開く。

昨日止まった場所から、続きを書いた。

夜配りが、主人公に最後の白紙を渡す場面。

玲は、夢の中の劇場を思い出しながら書いた。

『終わりは、私が届けることもございます』
夜配りは、白紙を差し出した。
『けれど、次の物語は、あなたが届けるのでございます』

玲は、その一文をしばらく見つめた。

少し説明的かもしれない。

でも、今はこれでいい。

後で直せばいい。

まずは、終わりまで届ける。

それが大事だった。

その日、玲は八時間書いた。

途中で昼食を食べ、洗濯機を回し、夕方に少し散歩した。

それ以外は、ほとんど机の前にいた。

『ラグナロク』は、終盤に差しかかっていた。

主人公は九通の封筒を受け取り、夜配りと向き合い、古い結末を燃やす。

玲は、その場面を書きながら何度も手が止まった。

自分の痛みに近すぎる。

けれど、近すぎるからこそ、嘘を混ぜた。

夜配りの台詞を少しだけ古めかしくした。
主人公の部屋に世界樹の影を伸ばした。
黒い狼を登場させた。
灰の大地に芽吹く小さな光を書いた。
最後に、雨上がりの空に薄い虹を置いた。

現実には、もっと曖昧だった。

けれど物語では、その曖昧さに形を与えることができた。

玲は書いた。

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