小説WE'RE HEROES!!

部活発のガールズバンドを結成した私たち。愛機“エクスカリバー”を手に、円卓の騎士のように支え合いながら音を鳴らす。選ばれた英雄じゃなくても、自分たちだけの伝説を、ステージの上に築いていく。

1 / 10

第一話 草原を走る子

瀬名千夏は、走るのが好きだった。

目的地があるからじゃない。
誰かに勝ちたいからでもない。
ただ、風が前から吹いてくると、どうしても足が動いてしまう。

河川敷の草は、六月の光を浴びて青く揺れていた。
空は高くて、雲は白くて、世界中の悩みなんか全部、あの向こうに飛んでいってしまいそうだった。

千夏はギターケースを背負ったまま、草の上を駆けていた。

制服のシャツはもう少し汗ばんでいる。
スカートの下にはショートパンツ。
足元は指定のローファーではなく、履きつぶしたスニーカー。

校則的にはたぶん、ぎりぎりアウト。
でも千夏に言わせれば、走りにくい靴を履かせる方が悪い。

「ちー!」

後ろから声がした。

千夏は振り向かずに叫ぶ。

「遅い!」

「お前が速いんだよ!」

朝倉蒼真が、息を切らしながら追いかけてくる。

蒼真は千夏の幼なじみだった。
小学校も、中学校も、そして高校も同じ。腐れ縁という言葉を辞書で引いたら、たぶん二人の写真が出てくる。

千夏のことを「ちー」と呼ぶのは、蒼真くらいだった。

他のクラスメイトは「瀬名さん」か「千夏」。
軽くからかう男子は「ちーたん」。
先生は当然「瀬名」。

でも蒼真だけは、昔からずっと「ちー」だった。

千夏は草の上でくるりと振り返り、両手を腰に当てた。

「蒼真、体力なさすぎ」

「ギターケース背負って全力疾走するやつに言われたくない」

「全力じゃないし」

「じゃあ何割?」

「んー、六割?」

「チーターかよ」

その言葉に、千夏は少しだけ顔をしかめた。

「またそれ言う」

「だって、最初に言ったの俺だし」

「だからって、一生言うな」

「無理。お前、昔からチーターだったもん」

蒼真はようやく千夏に追いつき、膝に手をついて息を整えた。

「幼稚園の遠足、覚えてるか?」

「覚えてない」

「嘘つけ。芝生の広場で、お前だけずっと走ってた」

「子どもは走るものでしょ」

「いや、あれは走るっていうか、跳ねてた。細い手足ばたばたさせて、速いくせにすぐ転んで」

「……悪口?」

「褒めてる」

「絶対違う」

「で、膝すりむいても泣かないで、また走り出すからさ。俺が言ったんだよ」

蒼真は、にやっと笑った。

「チーターの赤ちゃんみたいって」

千夏はそっぽを向いた。

「赤ちゃんじゃないし」

「今もそこなんだ」

「そこ大事」

風が吹いた。

千夏の短い髪が、頬の横でふわりと跳ねる。
少し明るい茶色の毛先が、草原の光を拾って金色に見えた。

蒼真はその横顔を見ながら、少しだけ黙った。

子どもの頃から、千夏は前にいた。
誰よりも先に走って、誰よりも先に転んで、誰よりも先に立ち上がる。

それはリーダーというより、何かもっと単純な生き物みたいだった。

風が吹いたら走る。
草が揺れたら跳ねる。
怖くても、気になった方へ行く。

瀬名千夏という女の子は、たぶんそういうふうにできている。

「で、ちー」

「なに」

「今日、軽音部の見学行くんだろ」

千夏の肩がぴくっと動いた。

「……行くだけ」

「入る気は?」

「ない」

「ギター背負ってるけど」

「これは、たまたま」

「たまたまギターを背負って軽音部に行く女子高生、なかなかいないけど」

千夏は唇を尖らせた。

「だって、見るだけなら弾けた方がいいじゃん」

「見るだけなのに?」

「見て、もし音出したくなったら困るし」

「それ、入る気あるやつの台詞だろ」

「ないってば」

千夏はそう言って、河川敷の向こうに見える校舎を見上げた。

白い校舎の四階。
西棟の端。
音楽室の隣に、古い準備室がある。

そこの奥に、もう何年も使われていないロッカーがあるらしい。

今朝、クラスメイトが噂していた。

軽音部は、今年で廃部になるかもしれない。
部員が足りない。
顧問もやる気がない。
文化祭に出られるかも分からない。

そして、その軽音部には、昔の伝説のバンドが残したギターが眠っている。

誰が弾いても、うまく鳴らないギター。

名前は。

「エクスカリバー、だっけ」

千夏が呟くと、蒼真が眉を上げた。

「何それ」

「軽音部のロッカーにあるんだって。銀色のギター」

「エクスカリバーって、剣じゃん」

「ギターらしいよ」

「意味分かんないな」

「でも、ちょっと見てみたいじゃん」

千夏は笑った。

その笑顔を見て、蒼真は嫌な予感がした。

千夏がこういう顔をする時は、だいたい何かが始まる。
そして、巻き込まれるのはいつも自分だ。

「ちー」

「なに」

「見るだけだからな」

「分かってるって」

「絶対分かってない顔してる」

「失礼な」

千夏はギターケースの肩紐を握り直した。

そして、校舎に向かって走り出す。

「行くよ、蒼真!」

「だから速いって!」

蒼真の声を背中に受けながら、千夏は笑った。

風が前から吹いてくる。
草が足元で揺れている。
胸の奥が、なぜか少しだけ熱い。

まだ何も始まっていない。

軽音部に入るつもりもない。
バンドを組むつもりもない。
誰かの前で歌うつもりもない。

ましてや、自分が英雄になるなんて、少しも思っていない。

ただ。

音がする気がした。

遠くから、誰かが弦を鳴らすような音。
まだ知らない歌が、自分を呼んでいるような気がした。

千夏は走る。

草原みたいな河川敷を抜けて、校舎へ向かって。

まだ名前のない物語の、一音目へ向かって。

西棟四階の廊下は、いつも少しだけ空気が違う。

人が少ないからだと思っていた。

運動部の掛け声も、吹奏楽部の音階練習も、購買前で騒ぐ声も、ここまでは薄くなって届く。窓の外ではグラウンドが広がっているのに、この階だけは校舎の奥に取り残されたみたいに静かだった。

千夏は廊下の先にある音楽室を見つめた。

扉には、少し色褪せた紙が貼られていた。

軽音楽部 部員募集中

その下に、小さく手書きで文字が足されている。

このままだと廃部です。助けて。

「……切実だな」

蒼真が横から覗き込んで言った。

「助けてって書いてある」

「見るだけだからな」

「分かってるって」

「その顔は分かってない」

千夏はむっとして、音楽室の扉に手をかけた。

引き戸を開けると、埃っぽい空気と、古いアンプの匂いがした。

音楽室の中には誰もいなかった。

黒板の前にドラムセット。
壁際にキーボード。
隅には古いベースアンプと、コードが絡まったままのエフェクターケース。
窓際には、使われていない譜面台がいくつも重ねられていた。

ここだけ、時間が止まっているみたいだった。

「誰もいないじゃん」

蒼真が言った。

「部員募集中なのに?」

「廃部寸前なら、こんなもんじゃない」

千夏は音楽室の真ん中まで歩いた。

床が少し鳴る。

ぎし、と小さな音。

その音にさえ、なぜか胸が反応した。

千夏はギターケースを床に置いた。
背中が急に軽くなる。

でも、心のどこかは逆に落ち着かなかった。

誰もいない音楽室。
埃をかぶったアンプ。
使われなくなったドラム。

ここには音がある。
でも、まだ鳴っていない。

そんな感じがした。

「準備室って、あっちか」

蒼真が奥の扉を指した。

音楽室のさらに奥。
小さな木製の扉がある。

そこに、薄い札が掛かっていた。

音楽準備室

「ねえ」

「何」

「行く?」

「行くんだろ」

「うん」

「聞く意味あった?」

「一応」

千夏は扉に近づいた。

ノブを回す。
鍵はかかっていなかった。

扉を開けた瞬間、空気が変わった。

音楽室よりもさらに狭く、さらに古い匂いがする。
棚にはリコーダーの箱や、使われていないタンバリン、黄ばんだ楽譜、謎の打楽器が詰め込まれていた。

そして、一番奥。

壁に寄せるようにして、古いロッカーが立っていた。

灰色のロッカー。
ところどころ塗装が剥げ、角に錆が浮いている。

扉には黒い油性ペンで、何かが書かれていた。

千夏は一歩近づく。

文字は、少し滲んでいた。

けれど読めた。

ROUND TABLE

「ラウンド……テーブル?」

千夏が呟いた。

「円卓だな」

蒼真が言った。

「円卓?」

「アーサー王とかに出てくるやつ」

「あー、なんか騎士が集まるやつ?」

「そう」

「ふーん」

千夏はロッカーを見上げた。

円卓。
騎士。
聖剣。

なんだか、やたらと大げさだ。

でも、その大げささが少しだけ好きだと思った。

「これが噂の?」

「たぶんな」

「開くかな」

「勝手に開けていいのか?」

「助けてって書いてあったし」

「それとこれは違うだろ」

千夏が取っ手に手をかけようとした、その時だった。

「そこ、開けない方がいいよ」

背後から声がした。

「うわっ!」

千夏は飛び上がった。

蒼真も肩を震わせる。

振り返ると、準備室の入口に女子生徒が立っていた。

長い黒髪を後ろでひとつに結んでいる。
制服はきちんと着ているのに、胸元にはなぜか小さな銀色のピック型ペンダント。
目元は涼しく、表情はあまり動かない。

千夏より少し背が高い。

その女子は、二人を見てから、静かに言った。

「一年?」

「二年です」

千夏は反射的に答えた。

「そう。じゃあ同じ学年か」

「あ、あなたは?」

「月森玲奈。軽音部」

玲奈はそう言って、ロッカーに視線を移した。

「そこ、勝手に開けると怒られる」

「誰に?」

「たぶん、過去に」

「過去?」

「この部室、そういう空気あるでしょ」

玲奈の言い方があまりにも真顔だったので、千夏は少しだけ笑ってしまった。

「なにそれ。幽霊出る系?」

「幽霊じゃない。もっと面倒くさいもの」

「面倒くさいもの?」

「伝説」

玲奈はロッカーの前まで歩いてきた。

足音が静かだった。
千夏とは違う。千夏が草を踏んで走る音なら、玲奈は夜の水面を歩くみたいだった。

「ROUND TABLE。十年前の軽音部のバンド名」

「ほんとにあったんだ」

「うん。文化祭で有名だったらしい。校外の大会にも出てた。ライブハウスにも出てた。学校中が知ってたって」

「すご」

「でも、最後の文化祭直前に解散した」

NOVEL 一覧へ