自分でも、変なことを言っていると思った。
でも、千夏にはそう感じていた。
岳のドラムは背中を押す。
玲奈のキーボードは空を広げる。
蒼真のギターは横に並ぶ。
そこにベースが入ったら、きっと地面ができる。
草原を走るための、確かな地面が。
「黒瀬のベースが欲しい」
千夏はまっすぐ言った。
凛は、長い沈黙のあとで目を伏せた。
「……馬鹿みたい」
「うん」
「褒めてない」
「分かってる」
「でも」
凛は立ち上がった。
千夏より少し背が高い。
近くで見ると、その目はやっぱり冷たいだけではなかった。
どこか疲れている。
「今日の放課後、聴きに行く」
千夏の顔がぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「聴くだけ」
「仮?」
「仮ですらない」
「じゃあ、仮見学」
「勝手に名前つけないで」
凛は鞄を持ち上げた。
「下手だったら帰る」
「下手だよ」
「じゃあ帰るかも」
「でも昨日よりは上手くなる」
千夏が言うと、凛は少しだけ口元を緩めた。
笑った、のかもしれない。
「期待しないでおく」
「うん。期待しないで来て」
「そこは期待させなよ」
蒼真が後ろから小さく突っ込んだ。
千夏は振り返って笑った。
「蒼真、今日の円陣、ちゃんと声出してね」
「ここで言うな」
凛が眉をひそめる。
「円陣?」
「ROUND TABLEの掛け声」
「何それ」
「WE’RE——って言ったら、HEROES!!って返す」
凛は心底呆れた顔をした。
「ださい」
「でしょ」
「認めるんだ」
「でも、ちょっと熱い」
凛は何も言わなかった。
ただ、窓の外を少しだけ見た。
昼休みの光が、教室の机に落ちている。
その光の中で、凛の指がまた机を叩いた。
さっきとは違うリズム。
千夏はそれを見て、胸の奥が跳ねた。
この人は、まだ音をやめていない。
そう思った。
予鈴が鳴る。
千夏は慌てて教室の入口へ向かった。
「じゃあ、放課後!」
凛はイヤホンを片耳に戻しながら言った。
「聴くだけだから」
「うん!」
「入らないから」
「うん!」
「期待しないから」
「うん!」
蒼真が千夏の腕を引いた。
「戻るぞ、ちー」
「分かってる!」
二人は廊下へ出た。
千夏は歩きながら、拳を握った。
「来るって!」
「聴くだけな」
「来るなら勝ち!」
「単純」
「いいじゃん」
千夏は廊下の窓から空を見た。
昼の空は、朝よりも青が濃くなっていた。
少しだけ、風が強い。
今日の放課後、黒瀬凛が来る。
上手い人。
本気だった人。
軽音部を嫌いになった人。
その人の前で、自分は歌う。
怖くないわけじゃない。
でも、怖いからこそ、足が動く。
千夏は小さく呟いた。
「未知なる世界へ、だね」
蒼真が横で聞き返す。
「何?」
「なんでもない」
千夏は笑って、教室へ向かって走り出した。
「走るな!」
蒼真の声が後ろから飛んでくる。
でも、千夏は止まらなかった。
放課後が待ち遠しかった。
銀色のギターを鳴らしたくて、喉の奥がもう熱くなっていた。
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放課後の音楽室は、いつもより少しだけ緊張していた。
理由は明らかだった。
黒瀬凛が来る。
たったそれだけで、空気が変わっている。
岳はドラムセットの前で、いつもより無駄にスティックを回していた。
玲奈はキーボードの前で譜面を整えながら、いつもより無口だった。
蒼真はギターのチューニングを何度も確認している。
そして千夏は、音楽室の真ん中でエクスカリバーを抱えていた。
銀色のギターは、今日も重い。
けれど昨日より少しだけ、肩に馴染んでいる気がした。
「ちー」
蒼真が声をかける。
「何」
「右足」
千夏は自分の足元を見た。
また、つま先が小刻みに跳ねている。
「これはリズム」
「始まってない」
「心の中では始まってる」
「昨日も聞いた」
「じゃあ覚えて」
千夏は強がって笑った。
でも、緊張しているのは本当だった。
朝、凛に言った。
黒瀬のベースが欲しい。
口にした時は本気だった。
今も本気だ。
でも、いざ聴かせるとなると、怖い。
下手だったら帰る。
凛はそう言った。
千夏たちは、たぶん本当に下手だ。
少なくとも、凛が納得するほど上手くはない。
演奏はまだ荒い。
テンポも揺れる。
蒼真はまだコードチェンジに迷う。
岳は勢いで走りすぎる。
玲奈はうまいけど、みんなを支えるために音を抑えている。
そして千夏は。
歌いながら弾くと、まだ指が追いつかない。
声も、力を入れるとすぐに少し掠れる。
自分がフロントだなんて、全然信じられない。
でも。
だからこそ、鳴らしたかった。
上手いから鳴らすんじゃない。
完璧だから歌うんじゃない。
怖くても、下手でも、それでも前に出るために鳴らす。
千夏はエクスカリバーのネックを握った。
左手の指先が、じんと痛む。
その痛みが、少しだけ千夏を落ち着かせた。
「来た」
玲奈が言った。
音楽室の扉が開く。
黒瀬凛が入ってきた。
放課後の光を背にして、彼女は静かに音楽室へ足を踏み入れる。
片手には黒いソフトケース。たぶんベースだ。
制服はきちんとしているのに、肩に楽器を背負った姿だけで、この場所より少し外の空気をまとっているように見えた。
ライブハウスの匂い。
千夏は、そう思った。
行ったことはないのに。
「本当に来た」
岳が笑う。
「聴くだけ」
凛は短く答えた。
「久しぶり、凛」
玲奈が言う。
「久しぶり」
凛は玲奈を見て、少しだけ表情を緩めた。
その一瞬で、千夏は二人の間に過去があることを感じた。
去年。
壊れた軽音部。
残った玲奈。
去った凛。
自分はまだ何も知らない。
でも、今日の音で少しだけ触れられる気がした。
凛は壁際に立ち、腕を組んだ。
「で、何を聴かせてくれるの」
岳が答える。
「WE’RE HEROES!!」
「ださい」
「知ってる」
千夏が言った。
凛が千夏を見る。
「知っててやるの?」
「うん」
「なんで」
「ださいけど、熱いから」
「単純」
「よく言われる」
凛は小さく息を吐いた。
「じゃあ、どうぞ」
その言い方は冷たかった。
でも、帰らない。
千夏はマイクの前に立った。
手が汗ばんでいる。
ピックが少し滑る。
岳が立ち上がった。
「やる前に、あれだろ」
「あれ?」
凛が眉をひそめる。
岳はにやりと笑う。
「ROUND TABLEの円陣」
「本気でやるの?」
凛が呆れた顔をする。
「本気でやる」
千夏が言った。
蒼真が小さくため息をつく。
「黒瀬の前でやるのか」
「やる」
「恥ずかしいんだけど」
「もう遅い」
千夏はエクスカリバーを肩にかけたまま、右手を前に出した。
岳がその上に手を重ねる。
玲奈が重ねる。
少し遅れて、蒼真も重ねた。
凛は壁際でそれを見ている。
千夏は、凛も呼びたいと思った。
でも、今はまだ違う。
まだ、彼女の席は空いている。
だから千夏は、四人だけの手を見つめた。
円卓なんてない。
でも、手を重ねると、たしかに丸い。
誰かが上でも下でもない。
全員が同じ高さから、同じ音へ向かう。
千夏は息を吸った。
「WE’RE——!」
岳が即座に叫ぶ。
「HEROES!!」
玲奈も続く。
「HEROES」
蒼真は昨日より少しだけ大きな声で言った。
「HEROES」
「蒼真、まだ小さい」
「うるさい」
凛が壁際でぼそっと言った。
「ほんとにださい」
千夏は笑った。
「でしょ」
「褒めてない」
「でも、いつか言いたくなるよ」
「ならない」
「分かんないじゃん」
凛は答えなかった。
千夏はマイクの前に戻った。
岳がカウントを構える。
玲奈が鍵盤に手を置く。
蒼真がピックを握る。
千夏は目を閉じた。
草原を思い出す。
朝露の光。
風。
足元で揺れる葉。
まだ小さかった自分が、転びながら走っていた記憶。
チーターの赤ちゃんみたい。
蒼真の声が、遠い昔から聞こえる。
赤ちゃんじゃないし。
そう言ってむきになっていた自分。
でも今なら、少しだけ分かる。
あの頃の自分は、まだ何者でもなかった。
速く走りたいだけで、転ぶことも知らなかった。
でも、転んでもまた立った。
たぶん、今も同じだ。
下手でも、怖くても、また鳴らす。
岳のスティックが鳴った。
カン、カン、カン、カン。
千夏はエクスカリバーを鳴らした。
昨日より、少しだけ抜けた。
完璧じゃない。
でも、風が通った。
岳のドラムが入る。
昨日よりテンポは落としている。
その分、足元が安定していた。
玲奈のキーボードが、イントロに薄い光を足す。
蒼真のギターが、千夏のコードの横で少し震えながら鳴る。
千夏はマイクに向かって歌い出した。
風になびく草原 足跡残し進む
声が、昨日より前に出た。
凛が腕を組んだまま、じっと見ている。
千夏はその視線を感じた。
怖い。
でも、目を逸らさない。
嵐の中を打ち砕き 勇者は旅立つ
蒼真が一瞬コードを間違えかける。
でも持ち直す。
岳が少し笑う。
玲奈が音を支える。
千夏は気づいた。
ひとりで走っていない。
今、ちゃんとみんながいる。
Aメロが終わる。
Bメロに入る。
聖剣を握りしめて 未知なる世界へ
千夏はエクスカリバーのネックを強く握った。
未知なる世界。
それは、この瞬間だ。
黒瀬凛の前で歌うこと。
まだ自分たちを信じていない人の前で、信じてほしいと願いながら鳴らすこと。
冒険の火を灯し 挑む英雄たち
玲奈のキーボードが少し強くなる。
音楽室の空気が広がる。
サビ。
岳のドラムが大きく跳ねた。
千夏は息を吸った。
命を懸けて 未来を掴め
声が少し掠れた。
でも、止めない。
苦難と涙の果て 心に灯る希望
凛の表情は変わらない。
でも、指が動いていた。
腕を組んだまま、右手の指先が自分の左腕を叩いている。
リズムを取っている。
千夏はそれを見て、胸が熱くなった。
届いているかもしれない。
まだ分からない。
でも、完全に拒まれてはいない。
最後の掛け声。
千夏は叫んだ。
「WE’RE HEROES!!」
岳がシンバルを叩く。
玲奈の音が伸びる。
蒼真のギターが今度はちゃんと重なる。
終わった。