語り部が生まれる前夜
鈍色の空だった。
朝と呼ぶには冷たく、夕暮れと呼ぶにはまだ浅い。大学の講義棟の窓の向こうで、雲は重たく垂れこめていた。まるで空全体が、誰かに消しゴムで何度もこすられたあとの紙みたいだった。
教室の時計は、正確に進んでいた。
カチ。
カチ。
カチ。
秒針は迷うことなく円をなぞり、講義は予定通りに始まり、教授は出席を取り、学生たちは当たり前のように今日の予定や昨日の出来事を話していた。
昼に何を食べるか。
次の課題が面倒だとか。
誰と飲みに行くとか。
あの子が誰を好きらしいとか。
就活の説明会に申し込んだとか。
時間は、ちゃんと進んでいた。
この教室にいる人たちは、みんなその流れの中にいた。
けれど、僕だけが、その時間にうまく乗れなかった。
ノートを開いて、シャープペンを持って、黒板に書かれた文字を写している。体はそこにある。出席番号もある。学生証もある。鞄の中には教科書も、財布も、携帯電話も入っている。
それなのに、自分だけがどこか薄い膜の向こう側にいる気がした。
世界の時計は進んでいる。
でも、僕の中の時計だけが、ずっと前から止まっている。
止まったのは、たぶん、小学生の頃だった。
あの頃の僕は、もっと強かった。強かった、というより、疑っていなかった。
自分には何かができると思っていた。大人になれば、世界はもっと広がって、好きなものを好きだと言えて、思いついたことを形にして、誰かを驚かせたり、誰かに見つけてもらえたりするのだと、当たり前のように信じていた。
歌いたいものがあった。
描きたいものがあった。
作りたい世界があった。
まだ言葉になっていない物語が、胸の中でいくつも息をしていた。
僕は、たぶん、自信家だった。少し生意気で、夢見がちで、根拠もないのに、自分はどこか特別なのだと思っていた。
でも、その時計は、いつからか動かなくなった。
中学。
高校。
受験。
進路。
安定した仕事。
普通にしなさい。
将来困らないようにしなさい。
ちゃんとしなさい。
そんなふうに言われるたびに、胸の中にあった色が、少しずつ灰をかぶっていった。
反抗したかったわけじゃない。壊したかったわけでもない。ただ、自分の中にあった何かを、どう説明すればいいのかわからなかった。
夢と言うには幼すぎて、
才能と言うには曖昧で、
欲望と言うには恥ずかしくて、
祈りと言うにはまだ遠かった。
だから僕は、それをしまい込んだ。
しまい込んだつもりだった。
けれど、しまい込んだものは消えたわけではなかった。胸の奥の暗い場所で、ずっと熱を持ったまま、灰の下に埋もれていた。
「お前、ほんと喋んないよな」
隣の席の誰かが、笑いながら言った。
悪意はなかったのだと思う。たぶん、ただの軽口だった。その場にいた数人が笑った。僕も、笑った。
笑ったつもりだった。
でも、窓ガラスに映った自分の顔は、少しも笑っていなかった。
喋らないわけじゃなかった。
言葉がなかったわけでもなかった。
むしろ、言葉は多すぎた。
目の前の誰かに何かを言おうとするたび、頭の中で別の自分が問いかけてくる。
それは本当に言っていいことなのか。
変だと思われないか。
重すぎないか。
軽すぎないか。
相手はそれを求めているのか。
今の空気に合っているのか。
そもそも、自分は何を言いたいのか。
言葉は、口に届く前に枝分かれしていく。枝分かれして、絡まり合って、やがてほどけなくなる。そして結局、僕は黙る。
だから人は、僕をおとなしい人だと思った。
でも違う。
僕の中は、いつも騒がしかった。誰にも聞こえない場所で、いくつもの声が喋り続けていた。
その声たちは、誰かを責めていたわけではない。世界を憎んでいたわけでもない。ただ、感じすぎていた。
誰かの何気ない目線。
言葉の端に残った温度。
教室のざわめき。
曇り空の重さ。
自分の笑い声の不自然さ。
それらが全部、胸の奥に沈んでいく。
誰かのまなざしが怖かった。
見られると、自分の輪郭を間違えられる気がした。
けれど、誰にも見られないことは、もっと怖かった。
僕はここにいる。
確かにここに座っている。
ノートも取っている。
息もしている。
でも、誰の物語にも登場していない。
そのことが、ひどく怖かった。
講義が終わると、学生たちは椅子を引き、鞄を持ち、次の場所へ流れていった。教室の空気が一気に動き出す。笑い声。足音。椅子の軋む音。携帯電話の通知音。
みんな、次の時間へ向かっていた。
僕だけが、席を立つのに少し遅れた。
机の上に置いた手を見つめる。指先は冷えていた。何かを書きたいような、何かを掴みたいような、でも何もできない手だった。
僕はゆっくりノートを閉じた。
表紙には、今日の日付が書いてあった。確かに今日という日は進んでいる。けれど、その日付は僕のものではないように思えた。
中学も、高校も、大学も、僕は確かにそこにいた。制服も着た。試験も受けた。進路希望調査も出した。入学式にも出た。講義も受けた。
でも、そのどれにも、僕の色はついていなかった。
僕は生きていたのではなく、空白の中を、時間に運ばれていただけだったのかもしれない。
廊下に出ると、蛍光灯の白い光が壁に伸びていた。その光はどこか冷たく、病院の廊下に似ていた。
ふと、壁際のガラス窓に自分の姿が映った。
黒っぽい服。
曖昧な髪。
伏せがちな目。
何か言いたげなのに、何も言えない顔。
これが自分なのだろうか。
ずっと男として生きてきた。
それは間違いではなかった。
けれど、それだけでは、どうしても足りなかった。
男らしく振る舞えば、自分が少し遠くなる。かといって、何か別の名前を選べるほど、自分の輪郭ははっきりしていない。
街で見かけた柔らかな服。
雑誌の中の中性的な人。
舞台の上で、性別を越えて美しく立つ人。
少女のようでもあり、少年のようでもあり、どちらでもない何かのようでもある存在。
そういうものに、僕は目を奪われた。
それが恋なのか、憧れなのか、自分もそうなりたいのか、ただその世界に入りたいだけなのか、わからなかった。
わからないまま、胸だけが苦しくなった。
自分の声も、わからなかった。
低い声で笑う自分。
明るく返事をする自分。
場に合わせてうなずく自分。
そのどれもが、少しずつ演技のようだった。
でも、本当の声がどこにあるのかも、わからなかった。
僕は鏡の前に立つたび、自分に問いかけていた。
お前は、誰を演じているのだろう。
答えは、いつも返ってこなかった。
その日の夕方、図書館へ向かった。
理由はなかった。講義と講義の間の時間を潰すためだったのかもしれない。誰とも話さずに済む場所に逃げたかっただけなのかもしれない。
図書館の奥は、いつも少しだけ時間の流れが違っていた。
本棚の間には、古い紙の匂いが沈んでいた。誰かが引いた椅子の音も、ページをめくる音も、ここでは小さな儀式のように聞こえる。
僕は目的もなく歩いた。
哲学。
文学。
心理。
宗教。
芸術。
自己啓発。
棚に並んだ背表紙は、どれも黙ってこちらを見ていた。言葉を持っているものたちの沈黙だった。
ふと、一冊の本に目が止まった。
古びた、灰色の表紙の本だった。題名は、かすれてよく読めなかった。けれど、なぜか手が伸びた。
ページを開く。
乾いた紙の匂いがした。
その瞬間、何かが胸の奥で小さく鳴った気がした。
ページの隙間に、折りたたまれた紙片が挟まっていた。
誰かの忘れ物だろうか。
僕はそれを開いた。
そこには、短い言葉が書かれていた。
自分の声を、他人の合唱に溶かしてはいけない。
息が止まった。
その文字を見た瞬間、胸の奥で、ずっと眠っていた何かが身じろぎした。
それは励ましではなかった。救いでもなかった。ただ、忘れていた部屋の扉が、ほんの少しだけ開いたような感覚だった。
小学生の頃の自分が、そこにいた。
強気で、夢見がちで、少し生意気で、世界を疑っていなかった自分。まだ何者にもなっていないのに、何者かになれると信じていた自分。
その子は、ページの隙間からこちらを見ていた。
ねえ、まだやらないの。
まだ歌わないの。
まだ世界を作らないの。
そんな声が聞こえた気がした。
怖かった。
その子を見るのが怖かった。その子のまっすぐな目が、あまりにも痛かった。
僕は、その子を裏切ってきたのだと思った。
夢を見るのが怖くて、色を望むのが怖くて、世界をほしがるのが怖くて、自分を赦すのが怖くて、ずっと見ないふりをしてきた。
でも、その子は消えていなかった。
ページの隙間に残っていた。
小さな“わたし”の残響として。
僕は紙片を握りしめた。
窓の外では、雨が降り始めていた。細い雨だった。世界を洗うというより、灰色をさらに滲ませるような雨だった。
図書館の窓に、ぼんやりと自分の顔が映る。
その顔は、まだ何も変わっていなかった。急に強くなったわけでもない。声が戻ったわけでもない。自分が何者なのか、わかったわけでもない。
それでも、胸の奥で何かが震えていた。
止まっていた時計の針が、ほんの少しだけ動こうとしている。
そんな気がした。
それは、始まりと呼ぶにはあまりに小さな音だった。
けれど、空白を生きていた僕にとっては、世界で最初の音だった。
図書館を出る頃には、雨は少し弱まっていた。
夕方のキャンパスは、濡れたアスファルトの匂いに包まれていた。傘を差す人、傘を閉じる人、急ぎ足で駅へ向かう人。誰もがそれぞれの時間へ帰っていく。