僕はしばらく入口の庇の下に立っていた。
手の中には、さっきの紙片があった。
自分の声を、他人の合唱に溶かしてはいけない。
何度読んでも、その言葉の意味を完全には掴めなかった。けれど、意味より先に、胸の奥が反応していた。
それは、誰かに優しく抱きしめられたような感覚ではなかった。むしろ、長いあいだ蓋をしていた箱を、無理やり開けられたようだった。
中から出てきたものは、綺麗なものばかりではなかった。
恥ずかしさ。
悔しさ。
嫉妬。
憧れ。
失敗した恋の記憶。
言えなかった言葉。
なりたかった姿。
見つけてほしかった自分。
それらが、濡れた羽を持つ小さな生き物みたいに、胸の奥でばたばたと暴れていた。
僕は怖くなった。
見つけてしまったからだ。
まだ自分の中に、何かが残っていることを。
それは希望というには痛すぎた。
夢というには、あまりにも煤けていた。
でも、死んではいなかった。
その事実が、怖かった。
もう一度望んだら、また傷つくかもしれない。もう一度何かになろうとしたら、また何者にもなれない自分を思い知るかもしれない。もう一度自分の色を差し出したら、誰かに笑われるかもしれない。
だから、何も望まないふりをしていたのに。
望んでいないことにすれば、失ったときの痛みも少しは軽くなると思っていたのに。
雨粒が庇の端から落ちていく。
ぽつり。
ぽつり。
その音を聞きながら、僕はふいに、小学生の頃の帰り道を思い出した。
ランドセルを背負って、傘を振り回しながら歩いていた。雨上がりの水たまりを踏んでは、靴を濡らして怒られた。けれど、その頃の僕は、水たまりをただの汚れた水だとは思っていなかった。
そこには空があった。
雲があった。
電線が揺れていた。
夕焼けが落ちていた。
小さな水たまりの中に、別の世界があった。
僕はそういうものを、ちゃんと見ていた。
いつから、見なくなったのだろう。
いつから、濡れた靴の不快さや、汚れることや、怒られることや、変に思われることばかりを先に考えるようになったのだろう。
小学生の僕は、世界をほしがっていた。
大げさなくらいに。
無防備なくらいに。
何も持っていないくせに、世界の全部に手を伸ばそうとしていた。
今の僕は、その手をポケットの中にしまったまま、どこにも伸ばせずにいる。
その差が、たまらなく苦しかった。
僕は歩き出した。
傘は差さなかった。もう雨は霧のように細くなっていたし、濡れることを気にするのも面倒だった。
キャンパスの敷石は濡れて光っていた。木々の葉から雨粒が落ちるたび、小さな音がした。遠くで誰かが笑っている。自転車のブレーキが軋む。駅へ向かう学生たちの靴音が、いくつも重なっていく。
世界は、相変わらず僕の外側で進んでいた。
その流れを見ていると、ふと、自分だけが透明になったような気がした。
僕がここで立ち止まっても、誰も気づかない。僕が今日、何を思い出してしまったとしても、世界は何も変わらない。明日になればまた講義があり、出席があり、課題があり、同じように人の輪ができ、僕はその少し外側で笑ったふりをする。
たぶん、何も変わらない。
そのはずだった。
けれど、胸の奥で、さっきの小さな音がまだ消えずにいた。
カチ。
それは教室の時計の音ではなかった。スマートフォンの通知音でも、駅の発車ベルでもなかった。
もっと奥の方で鳴った音だった。
止まっていたものが、ほんの少しだけ身じろぎする音。
僕は足を止めた。
足元に、水たまりがあった。
小さな水たまりだった。誰かが踏めばすぐに形を失ってしまうような、浅くて頼りない水たまり。
その表面に、光が差していた。
雲の切れ間から、夕方の光が細く落ちていた。それが水たまりの端で揺れて、淡い色をつくっていた。
赤。
青。
金。
紫。
銀。
ほんの一瞬だった。
けれど、その一瞬だけ、世界が灰色ではなくなった。
僕は息を止めた。
見間違いかもしれない。
ただの反射かもしれない。
雨上がりにはよくある、取るに足らない光かもしれない。
でも、その小さな光は、僕の胸の奥にまっすぐ届いた。
灰色の世界の中に、色があった。
ずっと、なかったのだと思っていた。世界は鈍く、冷たく、遠く、誰かのためにだけ鮮やかで、自分の前には色を見せてくれないのだと思っていた。
でも、違ったのかもしれない。
世界に色がなかったのではない。
僕が、それを見るのを怖がっていただけなのかもしれない。
色を望むことが怖かった。
美しいと思うことが怖かった。
欲しいと思うことが怖かった。
なりたいと思うことが怖かった。
自分にも何かがあると信じることが、怖かった。
だって、信じてしまったら、失うことになる。望んでしまったら、届かない自分を見なければならない。色を知ってしまったら、灰色に戻ることが耐えられなくなる。
だから、見えないふりをしていた。
僕は水たまりの前にしゃがみ込んだ。
通りすぎる人の靴音が、すぐそばを行き過ぎていく。誰かに見られているかもしれない。変に思われるかもしれない。
でも、そのときだけは、どうでもよかった。
水たまりの中で、光は揺れていた。
それは虹と呼ぶにはあまりに小さかった。
希望と呼ぶにはあまりに頼りなかった。
未来と呼ぶには、まだ何も約束していなかった。
ただ、そこに色があった。
僕は、その色を見つめながら、昔の自分のことを考えた。
強気で、夢見がちで、世界を疑っていなかった子どもの僕。その子は、きっとこの水たまりを見たら、何かの入口だと思っただろう。向こう側に別の世界があると、本気で信じただろう。
僕は、そんなふうにはもう信じられない。
でも、信じられないことと、追いかけないことは、同じではないのかもしれない。
光が揺れる。
胸の奥で、また小さく音がした。
カチ。
それが本当に希望なのかは、まだわからなかった。
ただの錯覚かもしれない。
また傷つくための光かもしれない。
手を伸ばした瞬間に消えてしまう、雨上がりの気まぐれかもしれない。
それでも。
それでも、僕はその色を追いかけることにした。
なぜなら、その色の向こうに、まだ名前のない自分がいる気がしたから。
男でも、女でも、強い人でも、弱い人でも、おとなしい人でも、変な人でも、何者かでも、何者でもない者でもなく。
まだ名前のない、自分。
ずっと灰の下に埋もれていた色。
誰にも語れなかった痛み。
押し殺した憧れ。
引き裂かれた声。
それらが、いつかひとつの光を屈折させて、物語になるかもしれない。
そんなことを、ほんの少しだけ思った。
その夜、僕は机に向かった。
部屋の電気をつけると、白い蛍光灯の光が、机の上の紙片を照らした。
昨日までの部屋は、ただの部屋だった。眠る場所。課題をする場所。何も考えないふりをする場所。スマートフォンの画面を眺めながら、時間が過ぎるのを待つ場所。
でも今夜は、少しだけ違った。
この部屋は、何かが生まれる前の、薄暗い箱のようにも見えた。
僕は紙を一枚出した。
何を書けばいいのか、わからなかった。
物語を書こうとしているのか。
日記を書こうとしているのか。
歌詞を書こうとしているのか。
自分への手紙を書こうとしているのか。
何もわからない。
ただ、何かを書かなければいけない気がした。
白い紙を前にして、僕はゆっくり文字を書いた。
鈍色の空。
それだけで、手が止まった。
たった五文字。
それだけなのに、胸の奥が少し熱くなった。
僕は続けて書いた。
世界の時計は進んでいた。
けれど、僕の中の時計だけが、あの日から動いていなかった。
書いた文字を見つめる。
上手な文章ではなかった。けれど、自分の中から出てきた言葉だった。
そのことが、ひどく怖かった。
自分の言葉を持つということは、自分の痛みを認めることだった。自分が何も感じていないふりをやめることだった。本当は傷ついていたと、認めることだった。
僕はペンを置いた。
こんなもの、誰にも見せられない。
見せる必要もない。
ただの独り言だ。
ただの感傷だ。
何の価値もない。
そう思った。
けれど、紙を破ることはできなかった。
破ってしまえば、また時計が止まる気がした。
僕はもう一度ペンを握った。
息をするたび、心が摩耗していく。
誰かのまなざしが、突き刺さって痛かった。
けれど、誰かの無関心は、もっと怖かった。
書いてしまった。
僕はしばらく、その二行を見つめた。
これは本当のことだった。
人に見られるのが怖かった。
でも、見られないのはもっと怖かった。
目立ちたくない。
でも、見つけてほしい。
話しかけられたくない。
でも、わかってほしい。
放っておいてほしい。
でも、忘れないでほしい。
矛盾している。
ずっとそう思っていた。自分は矛盾している。面倒くさい。弱い。子どもっぽい。
けれど、その矛盾が、そのまま言葉になると、少しだけ形を持った。
形を持つと、ほんの少しだけ、自分から離れた。
痛みは消えない。
でも、眺めることができた。
僕はそれを声に出そうとした。
「誰かの、まなざしが」
声は震えていた。小さかった。誰かに聞かせられるものではなかった。
でも、部屋の空気が少しだけ動いた。
自分の中だけで鳴っていたものが、外に出た。
たった一行。
たった一息。
それだけなのに、喉の奥が熱くなった。
「けれど、誰かの無関心は、もっと怖かった」
読み終えた瞬間、目の奥がじんとした。
泣きそうだった。
理由はわからない。
悲しいのか、悔しいのか、恥ずかしいのか、少しだけほっとしたのか。どれも違うようで、どれもそうだった。
自分の声で読んだだけなのに。