自分の痛みが、自分の外に出た。
それだけで、胸の中の暗い部屋に、細い隙間が開いたようだった。
僕はペンを握り直した。
鏡に映る自分は、いったい誰を演じていたのだろう。
書いた瞬間、昼間の廊下の窓に映った自分の顔を思い出した。
伏せがちな目。
曖昧な髪。
何か言いたげなのに、何も言えない顔。
男として間違っているわけではなかった。
でも、それだけでは足りなかった。
それをどう書けばいいのか、わからなかった。
「女になりたい」と書けば、何かが違う気がした。
「男でいたくない」と書くのも、違う気がした。
「中性的になりたい」も、まだ言葉が硬すぎた。
そういうことではない。
いや、そういうことも少しはあるのかもしれない。
でも、それだけではない。
欲しかったのは、たぶん、輪郭だった。
自分の中にある、男らしさでも女らしさでも説明できない色。柔らかくて、鋭くて、綺麗で、少し怖くて、どちらにも寄りきらない何か。
それを、自分として出していいのかがわからなかった。
僕は紙の端に、小さく書いた。
まだ名前のない色。
それは、答えではなかった。
でも、今の僕にはそれで十分だった。
名前がないなら、無理に名づけなくていい。名づけられないまま、そこにあることだけ認めればいい。
僕は声に出した。
「まだ名前のない色」
その言葉は、部屋の中で思ったより静かに響いた。
紙の上の言葉は、少しずつ増えていった。
鈍色の空。
止まった内なる時計。
摩耗する心。
突き刺さるまなざし。
怖すぎる無関心。
鏡の中の他人。
遠すぎる夢。
戻らない季節。
笑い方を忘れた心。
ページの隙間に残っていた、小さな自分の声。
色を望むことの怖さ。
世界をほしがることの怖さ。
自分を赦すことの怖さ。
書けば書くほど、部屋の空気は重くなった。
救いに向かっている感じはしなかった。むしろ、沈んでいくようだった。今まで見ないようにしていたものを、ひとつずつ拾い上げているのだから、当然だった。
痛かった。
でも、その痛みには、どこか温度があった。
完全な冷たさではなかった。
灰の下で、何かがくすぶっている。
僕はその熱を、初めて怖がらずに見ようとしていた。
深夜になっていた。
スマートフォンの画面を見ると、日付が変わっていた。世界の時計は、今日から明日へ進んでいた。
僕の中の時計は、まだ完全には動いていない。
でも、もう止まったままではなかった。
針は震えている。
かすかに。
頼りなく。
何度も止まりそうになりながら。
僕は紙に最後の一行を書いた。
それでも、切実に、生きたかった。
書いたあと、しばらく動けなかった。
その一行は、今まで書いたどの言葉よりも怖かった。
生きたかった。
そんなことを、自分が思っていたなんて、認めたくなかった。
ずっと、自分は何も望んでいないふりをしていた。夢も、愛も、表現も、未来も、世界も、自分にはそれほど必要ではないふりをしていた。
でも違った。
本当は、切実に生きたかった。
ただ息をして、講義に出て、日付を進めることではなく。
自分の色で。
自分の声で。
自分の物語として。
生きたかった。
その事実が、胸の奥で熱を持った。
僕は小さく、その一行を読んだ。
「それでも、切実に、生きたかった」
声は震えていた。
でも、今度は止まらなかった。
読み終えたあと、部屋の中に長い沈黙が落ちた。
その沈黙は、いつもの空白とは違っていた。
何もない沈黙ではなかった。
言葉が生まれたあとの沈黙だった。
机の上には、書き散らされた紙が何枚もあった。どれも未完成で、まとまりがなく、作品と呼べるものではなかった。
けれど、そこには確かに僕がいた。
空白だったページに、僕の色が少しだけ染み込んでいた。
夜明け前の部屋は、世界から切り離された小さな箱のようだった。
机の上には、書き散らされた紙が重なっている。シャープペンの芯は短くなっていて、指先には薄く黒鉛の跡がついていた。
眠気はあった。身体は重かった。けれど、不思議と横になりたいとは思わなかった。
眠ってしまえば、今夜起きたことが全部、夢になってしまいそうだった。
紙の上に並んだ言葉を、もう一度読む。
それらは、ばらばらだった。
詩にもなっていない。
物語にもなっていない。
歌詞にもなっていない。
ただ、傷の名前を並べただけのようにも見えた。灰の中から拾い上げた、焦げた欠片のようでもあった。
でも、その欠片を見ていると、なぜか思った。
これは、誰かに宛てた手紙なのかもしれない。
誰に。
未来の自分に。
まだ出会っていない誰かに。
同じように灰色の世界を生きている誰かに。
いや。
まずは、あの頃の自分へ。
小学生の頃の僕。世界を疑っていなかった僕。「ぼくの世界」と書いて、その続きを書けないまま、どこかに置き去りにされた僕。
あの子に、何かを返さなければならない気がした。
ごめん。
最初に浮かんだ言葉は、それだった。
ごめん。
ずっと忘れたふりをしていた。恥ずかしいものみたいに扱っていた。夢を持っていたことも、自信があったことも、何かになりたいと思っていたことも、全部、痛々しい過去として閉じ込めようとしていた。
でも、違った。
あれは黒歴史ではなかった。
あれは、まだ傷つく前の声だった。
まだ世界を信じていた声だった。
僕は新しい紙を一枚出した。
真っ白な紙だった。
その白さが怖かった。何も書かれていない紙は、責めてくるように見えることがある。
お前は何を書くのか。
お前には書くものがあるのか。
書く資格があるのか。
そんなふうに問われている気がする。
でも今夜は、その白さの中に、少しだけ余白を見た。
まだ何も書かれていないということは、まだ何かを書けるということでもある。
僕はゆっくり、最初の一行を書いた。
いま、この詩は、あの頃の“わたし”へ。
書いた瞬間、胸の奥が静かになった。
僕、ではなく、わたし。
なぜその言葉になったのかは、わからなかった。でも、それが一番近い気がした。
男としての僕でも、子どもの頃のぼくでも、誰かに見せるための自分でもなく。もっと奥にいる、まだ名前のない存在。
男でも女でもなく、強くも弱くもなく、ただ感じていたもの。世界に色を見て、痛みを受け取り、言葉にならないまま震えていたもの。
それを呼ぶなら、今は“わたし”なのだと思った。
僕は続けて書いた。
ねぇ、大丈夫。
たったそれだけで、手が止まった。
大丈夫。
そんな言葉を、自分に言える日が来るとは思わなかった。
もちろん、何も大丈夫ではない。明日も講義はある。人間関係が急にうまくいくわけではない。恋愛が報われるわけでもない。進路の不安が消えるわけでもない。自分の声や姿や輪郭が、はっきり定まったわけでもない。
大丈夫なんて、無責任な言葉かもしれない。
それでも。
あの頃の自分に、誰かがそう言ってくれていたら、少しだけ違ったかもしれないと思った。
夢を持っていてもいい。
感じすぎてもいい。
人と同じ速度で話せなくてもいい。
自分の中に名前のない色があってもいい。
世界をほしがってもいい。
美しくなりたいと思ってもいい。
物語を作りたいと願ってもいい。
それは、間違いではない。
僕は紙に書いた。
ねぇ、大丈夫。
世界は、カラフルだった。
その一文を書いた瞬間、昨日の水たまりの光が目の奥に蘇った。
赤。
青。
金。
紫。
銀。
あれは、大きな虹ではなかった。空いっぱいに架かる奇跡ではなかった。誰もが見上げるような祝福ではなかった。
足元の、小さな水たまりの中にあっただけの色。
でも、あれでよかった。
希望は、いつも空に大きく架かるものだと思っていた。誰にでもわかる形で、まぶしく、正しく、あたたかく、自分を救い上げてくれるものだと思っていた。
でも、本当は違うのかもしれない。
希望は、もっと小さい。
見逃せば消える。
踏まれれば揺れる。
夜になれば見えなくなる。
それでも一瞬、確かにそこにある。
その小さな色を見逃さないこと。
それが、生きるということなのかもしれない。
僕は続けて書いた。
ずっと、ほんとはね。
書き終えたとき、窓の外がほんの少し明るくなっていることに気づいた。
夜が、ほどけ始めていた。
黒ではなく、青でもなく、白でもない。
鈍い灰色の光が、街の輪郭を少しずつ浮かび上がらせている。
夜明けの空も、やはり鈍色だった。
でも昨日までの鈍色とは、少し違って見えた。
灰色は、色がない色だと思っていた。何も始まらない色。冷たく、沈んで、止まっている色。
けれど今は、その中にいくつもの色が眠っているように見えた。
まだ表に出ていないだけ。
まだ名前を持っていないだけ。
まだ光に触れていないだけ。
灰色は、終わりの色ではなかった。
すべての色が生まれる前の、静かな場所だった。
僕は机の上の紙を整えた。
タイトルの下に、もう一度書く。
Grisaille
――鈍色に咲く
それは完成ではなかった。
むしろ、未完成であることを認めるための名前だった。
下絵。
灰色の層。
色が置かれる前の世界。
だけど、そこにはもう、色の予感がある。
僕は、その紙束を古い小学生のノートに挟んだ。
「ぼくの世界」
空白だったページの下に、今夜の言葉が重なる。
昔の自分と、今の自分。
止まった時計と、震え始めた針。
置き去りにした夢と、まだ名前のない色。
そのあいだに、細い橋がかかった気がした。
橋と呼ぶには、あまりに頼りなかった。紙でできた、雨に濡れれば破れてしまうような橋。
それでも、たしかに繋がっていた。
僕はノートを閉じた。
その瞬間、胸の奥で音がした。