小説甘い毒

婚姻の地へ向かう船の上で、護衛の騎士に心を奪われていく。忠誠と役割、そのあいだで交わした沈黙が、少しずつ熱を帯びていく。杯を分け合った夜から、愛は祝福ではなく、逃れられない毒になった。

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終章 赤い花の歌

その夜から、港には赤い花が咲くようになった。

誰かが植えたわけではない。

春が来るたび、桟橋のそばに、赤いアネモネがぽつぽつと顔を出した。

海風に揺れるたび、薄い花弁は今にもほどけそうに見える。
けれど黒い芯だけは、夜を覚えているように濃かった。

人々は不思議がった。

なぜ、こんな塩気の強い場所に花が咲くのか。
なぜ、満月の夜だけ、花弁が濡れたように赤くなるのか。

年老いた船乗りたちは言った。

「あの小舟の下で、王妃様が眠っているからだ」

若い娘たちは囁いた。

「いいえ。月に連れていかれたのよ」

子どもたちは、もっと好き勝手に話した。

「騎士が今でも、海の底で王妃様の名前を呼んでいるんだ」

誰も本当のことは知らなかった。

知っていたのは、ブランシュだけだった。

ナナリエの部屋には、赤いアネモネの押し花が残されていた。

薄い紙の間に挟まれた花弁。
月の舟で沈んだものとは別の、薬草室で乾かされた花だった。

そこには、小さな文字が添えられていた。

――咲けなかったのではない。
咲き方を選びたかっただけ。

ブランシュは、その文字を何度も読んだ。

読んでは泣き、泣いては怒り、怒ってはまた泣いた。

「馬鹿な方」

誰もいない部屋で、彼女はそう呟いた。

「本当に、馬鹿な方」

けれどその声は、責めるにはあまりに柔らかかった。

王妃の白い衣は、衣装箱の中に丁寧にしまわれた。
髪飾りも、手袋も、銀の櫛も、すべてそのまま残された。

ただ、窓辺の花瓶だけが空だった。

そこにはいつも、ナナリエが赤い花を挿していた。

部屋が白すぎるのは寂しいから、と言って。

マティアス王は、二人の名を罰として語ることを禁じた。

けれど、愛として語ることも許さなかった。

ただ、港の小舟だけは燃やさせなかった。

岸に繋がれたまま、舟は長く残された。

海へ出ることもなく。
陸へ引き上げられることもなく。

満月の夜、その舟は誰も触れていないのに、かすかに揺れると言われた。

波のせいだと大人たちは言った。
恋のせいだと娘たちは言った。

そしていつしか、この国には小さな歌が生まれた。

はじめは港の子どもたちが口ずさんだ。

やがて、酒場の楽師が弦に乗せた。

それから、花嫁になる娘たちが、婚礼前夜にこっそり歌うようになった。

甘い毒を飲まないように。
それでも、本当の名を忘れないように。

歌はこう始まる。

赤い花びら 月に濡れ
白い小舟は 岸を知らない

姫でもなく
王妃でもなく
名を呼ばれた夜にだけ
ひとは本当の花になる

毒は甘い
甘いから
恋は海より深くなる

ナナリエ
ナナリエ

騎士の声が沈むたび
赤いアネモネが咲く

ブランシュは、その歌を初めて聞いた時、声を出さずに泣いた。

あの方は、こんなふうに歌われたかっただろうか。

そう思った。

いや、きっと照れて怒るだろう。

「そんな大げさにしないで」と言って、明るく笑うふりをするだろう。

でもそのあと、誰も見ていないところで、少しだけ嬉しそうに花を撫でるだろう。

ブランシュには、それがわかった。

ナナリエは、明るい人だった。

けれど、ただ明るいだけの人ではなかった。

可愛らしく咲きながら、奥には黒い芯を抱えていた。
誰かを安心させるために咲き、最後には、自分の名で散ることを選んだ。

それが正しかったのか、ブランシュには今でもわからない。

わからないまま、彼女は毎年、満月の夜になると港へ行った。

小舟のそばに赤いアネモネを一輪置く。

花は、潮風に揺れる。

そのたび、ブランシュには一瞬だけ聞こえる気がした。

ナナリエ。

低く、濡れた弦のような声。

そして、それに答えるような、彼女の声。

ルシアン。

それだけ。

愛している、とは言わない。

言わなくても、わかってしまうから。

月は海に道を作る。

小舟は岸に繋がれたまま、静かに揺れる。

赤いアネモネは夜風の中で咲いている。

花弁は軽く、可愛らしく。
けれど芯は、どこまでも暗く、どこまでも強い。

甘い毒を飲んだ恋人たちは、もうどこにもいない。

けれど、満月の夜に港を歩くと、時々、誰かが名を呼ばれたように振り返る。

その時、海はほんの少しだけ赤く光る。

まるで、まだ胸の奥に残る恋が、夜の底で花を咲かせているみたいに。

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