小説甘い毒

婚姻の地へ向かう船の上で、護衛の騎士に心を奪われていく。忠誠と役割、そのあいだで交わした沈黙が、少しずつ熱を帯びていく。杯を分け合った夜から、愛は祝福ではなく、逃れられない毒になった。

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第二章 月の舟

その夜、海は眠らなかった。

船底を叩く波の音が、部屋の床から静かに上がってくる。
木材は軋み、吊るされた灯りは揺れ、壁に映る影が何度も形を変えた。

ナナリエは眠れずにいた。

ブランシュは隣の寝台で浅く息を立てている。
疲れているのに、眠りの底までは降りていない。
何かあればすぐに起きられるように、眠る時でさえ気を張っているのだ。

ナナリエはそっと寝台を抜け出した。

薄い羽織を肩にかけ、髪に残った赤いアネモネに触れる。

花弁は、あと数枚。

故郷から連れてきた花は、少しずつ夜にほどけていく。

机の上には、小さな銀の杯が置かれていた。
その横に、琥珀色の薬草酒。

船酔いを鎮めるためのものだと、ブランシュが言っていた。
けれどナナリエは、その瓶がただの薬酒ではないことを知っている。

母の庭で、昔聞いたことがあった。

婚礼の前夜、王と王妃が分け合う酒。
二人の心を結び、孤独をほどくための甘い薬。

愛を呼ぶものだと、大人たちは言った。
けれど母だけは、少し違う顔をした。

「愛を呼ぶ薬など、本当はないのよ」

そう言って、幼いナナリエの髪を撫でた。

「ただ、人の心にもうあるものを、隠せなくするだけ」

その時は、意味がわからなかった。

今は、少し怖い。

ナナリエは杯に手を伸ばしかけ、やめた。

指先に、昼間ルシアンに袖を止められた時の熱が残っているような気がした。

触れたのは布だけだった。

それなのに、そこだけがまだ、自分のものではないみたいに熱い。

ナナリエは窓を開けた。

夜風が入ってくる。
潮の匂い。
濡れた木の匂い。
薬草酒の甘く苦い香り。

月は高く昇っていた。

水面には、白い道ができている。

月の舟。

昼間、ルシアンが言った沈む舟。

ナナリエは羽織を握りしめた。

このまま部屋にいればよかった。
眠れなくても、朝を待てばよかった。

でも、足は勝手に扉へ向かっていた。

廊下は静かだった。

船は大きく揺れているのに、人の声だけが遠い。
誰もがそれぞれの不安を抱いて、眠ったふりをしている。

階段を上り、甲板へ出る。

冷たい風が頬に触れた。

そこに、ルシアンがいた。

まるで最初から、月の下に置かれていた影のように。

「眠れないのですか」

彼は振り返らずに言った。

ナナリエは少しだけ笑った。

「あなたは、人の気配に敏感すぎるわ」

「護衛ですので」

「それなら、眠れない姫を見逃してくれてもいいのに」

「見逃すには、夜風が冷たすぎます」

そう言って、彼は外套を外した。

ナナリエの肩へかける。

布が体を包む。
潮を含んだ重い匂い。
革と鉄と、わずかな薬草の香り。

ルシアンの近くにいる匂いだった。

「ありがとう」

ナナリエは言った。

その声が、自分でも驚くほど小さかった。

「部屋へ戻りましょう」

「いや」

答えは、思ったより早く出た。

ルシアンがこちらを見る。

ナナリエは月の道を見つめたまま言った。

「少しだけ、ここにいたい」

「寒くなります」

「寒い方がいいの」

「なぜ」

「熱いから」

言ってしまってから、ナナリエは唇を噛んだ。

その言葉は、夜の中で妙に裸だった。

頬が熱くなる。

ルシアンは何も言わなかった。

沈黙が、優しくも恐ろしくもあった。

ナナリエは外套の端を握りしめた。

「忘れて」

「できません」

「あなたは、そればかり」

「忘れたふりなら、できます」

「では、そうして」

「はい」

けれど彼は、忘れたふりをしなかった。

少なくともナナリエには、そう見えた。

二人はしばらく、月の海を見ていた。

波が船腹を撫でる。
木が軋む。
遠くで帆が鳴る。

すべてがゆっくりと、胸の内側に触れてくる。

「ルシアン」

「はい」

「あなたは、なぜ王に仕えているの」

「救われたからです」

短い答えだった。

ナナリエは彼を見る。

「マティアス王に?」

「はい」

「どんなふうに」

「私が何者でもなかった時に、名を与えてくださいました」

名。

その一音が、ナナリエの胸に落ちた。

「名を?」

「兵でもなく、孤児でもなく、拾われた者でもなく。ルシアン、と」

彼の声は静かだった。

けれどその静けさの奥に、消えない熱があった。

ナナリエはなぜか、胸が痛くなった。

「それで、あなたは王を裏切れないのね」

「はい」

迷いのない答え。

美しいと思った。

そして、少しだけ残酷だと思った。

「では、私のことも」

言いかけて、ナナリエは止まった。

ルシアンがこちらを見る。

「私のことも、王のものとして守るの?」

言ってから、後悔した。

こんな問いを投げてはいけない。

彼を困らせる。
自分も困る。

正しい答えなど、どこにもない。

ルシアンは長く黙った。

その沈黙の間、波だけが二人のあいだを満たしていく。

やがて彼は言った。

「守ります」

ナナリエは目を伏せた。

「そう」

「けれど」

また、その言葉。

けれど。

ルシアンの声が、少しだけ近くなった。

「王のものだから守るのではありません」

ナナリエは息を止めた。

「では、なぜ」

「あなたが、あなたであるからです」

月の光が、急に白くなった気がした。

ナナリエは何も言えなかった。

姫君だから。
王妃になる人だから。
国を救う婚姻だから。
大切な同盟の証だから。

そういう理由なら、いくらでも聞いてきた。

けれど。

あなたが、あなたであるから。

その言葉は、あまりに危うかった。

ナナリエは外套の内側で指を握る。

「そんなことを言う人は、嫌い」

「申し訳ありません」

「謝らないで」

「はい」

「謝られると、もっと嫌いになる」

「では、謝りません」

「……本当に変な人」

「はい」

返事が真面目すぎて、また笑いそうになった。

けれど笑ったら、何かが壊れそうだった。

その時、船が大きく傾いた。

ナナリエの体がよろめく。

ルシアンの手が、今度は袖ではなく、彼女の手首を支えた。

直接、触れた。

一瞬だった。

けれど、その一瞬で夜の温度が変わった。

指が、指を知る。

肌が、肌を覚える。

ナナリエは息を呑んだ。

ルシアンも、すぐに手を離さなかった。

離せなかったのかもしれない。

二人は見つめ合う。

何も言わない。

言葉にしたら終わるものが、確かにそこにあった。

ナナリエの髪から、また花弁が一枚落ちた。

赤い花弁は風にさらわれず、ルシアンの外套の上に留まった。

彼はそれに気づいた。

指先で、そっと摘まむ。

「落ちました」

「もう、寿命なの」

「まだ、赤い」

「赤くても、落ちるものは落ちるわ」

ルシアンは、その花弁をナナリエに返した。

指先が触れそうで、触れない。

その距離が、触れるよりも苦しかった。

ナナリエは花弁を受け取った。

薄く、冷たい。
けれど、指に色が移りそうなほど赤い。

ふいに、部屋に置いてきた銀の杯を思い出した。

あの甘く苦い薬草酒。

心にあるものを、隠せなくする薬。

「ルシアン」

「はい」

「薬草酒を、持ってきて」

彼は眉をわずかに動かした。

「船酔いですか」

「いいえ」

「では」

ナナリエは彼を見た。

逃げずに。

「眠れないの」

その言葉だけで、ルシアンは理解したようだった。

けれど止めなかった。

止めるべきだったのかもしれない。

それでも彼は、静かに頷いた。

しばらくして、ルシアンは銀の杯と小瓶を持って戻ってきた。

ナナリエはそれを受け取る。

月明かりの下で、薬草酒は琥珀ではなく、淡い薔薇色に見えた。

赤いアネモネの花弁を一枚、杯に落とす。

花弁は水面に浮かび、ゆっくりと色を滲ませた。

「これは」

ルシアンが言う。

「婚礼の前に、王と分けるはずのものよ」

「ならば、私が飲むべきではありません」

「ええ」

ナナリエは杯を見つめた。

「だから、飲んではいけないの」

「姫君」

「わかっている」

声が震えた。

「わかっているの。私は明日、マティアス王のものになる。あなたは王の騎士。これは、王と私のための杯」

ルシアンは黙っていた。

ナナリエは続けた。

「でも、心にもうあるものを隠せなくするだけなら」

杯を持つ指に力が入る。

「私は今、何を隠しているのか知りたい」

ルシアンの目が、痛いほど静かだった。

「知れば、戻れません」

「戻る場所なんて、もうないわ」

言ってしまった。

その瞬間、ナナリエは自分の中の黒い芯が、夜の中で露わになった気がした。

可愛らしく咲いていた花の奥。
誰にも見せない暗さ。
誰にも譲れない本音。

それが、月に照らされている。

ルシアンは杯を見つめた。

「私は、あなたを止めるべきです」

「止めて」

ナナリエは言った。

「止めてくれたら、私はきっと戻れる」

ルシアンの指が、杯に触れた。

「では、止めます」

けれど彼の声は、少しだけ苦しかった。

ナナリエはそれを聞いてしまった。

聞いてしまったら、もう駄目だった。

「嘘」

ナナリエは小さく言った。

「あなたも、知りたいのでしょう」

月が、二人のあいだに落ちている。

波が近い。

夜が深い。

ルシアンは目を閉じた。

そして、杯を受け取った。

「これは罪です」

「知っている」

「甘いとは限りません」

「甘いから、怖いの」

ルシアンが先に口をつけた。

ほんの少し。

それから杯をナナリエへ返す。

同じ縁に、彼女は唇を重ねた。

薬草酒は、舌の上で甘かった。

けれどすぐに、苦みが追いついてくる。

甘い。
苦い。
熱い。
冷たい。

どれも本当で、どれも嘘のようだった。

ナナリエは目を閉じた。

杯の縁には、ルシアンの温度が残っていた。

その温度を飲み込んだのだと思った瞬間、胸の奥で何かが静かに割れた。

遠くで、波が大きく鳴る。

船が揺れる。

月の舟が沈む。

ナナリエの中で、明るく咲くための花弁が一枚ずつほどけていく。

「ナナリエ」

ルシアンの声がした。

初めてだった。

姫君ではなく。

王妃になる人でもなく。

ただ、その名で。

ナナリエは目を開けた。

「もう一度」

彼は首を振った。

「これ以上は」

「お願い」

声が、夜に濡れていた。

ルシアンの指が、杯を持つナナリエの指に重なる。

今度は離れなかった。

「ナナリエ」

その名が、胸の奥に落ちる。

甘い毒のように。

ナナリエは笑わなかった。

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