小説甘い毒

婚姻の地へ向かう船の上で、護衛の騎士に心を奪われていく。忠誠と役割、そのあいだで交わした沈黙が、少しずつ熱を帯びていく。杯を分け合った夜から、愛は祝福ではなく、逃れられない毒になった。

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夢の中で杯に触れた指が、現実でも震えている。

彼女はその指を唇に当てた。

何も残っていないはずなのに。

そこには、まだ名を呼ばれた熱があった。

ルシアン。

声に出さずに呼ぶ。

それだけで、胸の奥の毒が、もう一度甘く疼いた。

第四章 名前を呼ばない夜

王妃になってから、ナナリエはよく笑った。

いいえ。

笑った、というより、咲いた。

朝の謁見では、柔らかく。
午後の庭では、軽やかに。
夜の晩餐では、灯りに映えるように。

彼女が言葉を置くと、場の空気が少し明るくなる。
彼女が赤い花を飾ると、白い壁の部屋に体温が戻る。

新しい王妃は、この国に色を運んできた。

人々はそう囁いた。

ナナリエは、その声に応えるように咲き続けた。

赤いアネモネのように。
可愛らしく、親しみやすく。
けれど、黒い芯だけは誰にも見せないように。

ルシアンとは、ほとんど話さなかった。

広間で会えば、彼は騎士として礼をする。

「王妃陛下」

そう呼ばれるたびに、ナナリエの胸の奥で小さな花弁が落ちた。

ナナリエ。

あの夜、月の下で呼ばれた名。

それを知っている声が、いまは別の名で彼女を遠ざける。

正しいことだった。

正しいことは、やはり冷たい。

ある日の午後、ナナリエは城の薬草室にいた。

細長い部屋には、乾かした葉と花が吊るされている。
甘いもの、苦いもの、土に似た匂いのもの。
そのすべてが混ざり、静かな熱のように空気を満たしていた。

ナナリエは赤いアネモネの押し花を作っていた。

故郷から持ってきた最後の花。

もう生きてはいない。
けれど、赤はまだ残っている。

薄い紙の間に花弁を置く。
指で形を整える。
黒い芯が潰れないように、そっと。

その時、扉が叩かれた。

「どうぞ」

入ってきたのはルシアンだった。

ナナリエの指が止まる。

彼は一礼した。

「王より、薬草の目録を受け取るよう命じられました」

「ブランシュに渡しておいたわ」

「聞きました。ですが、追加で確認したいものがあると」

「そう」

ナナリエは押し花から目を離さないまま答えた。

「なら、そこにある棚を見て。青い紐で結んだ束よ」

ルシアンは部屋の奥へ歩いた。

乾いた葉が、彼の外套にかすかに触れる。
その音だけで、ナナリエの胸は騒いだ。

衣擦れ。

革靴の音。

近づく気配。

たったそれだけのものが、どうしてこんなにも体の奥へ入ってくるのだろう。

「これですか」

ルシアンが束を取る。

「ええ」

「毒消しの薬草ですね」

「少量なら」

「多量なら?」

ナナリエはようやく彼を見た。

「毒にもなる」

二人の間に、沈黙が落ちた。

薬草室の窓から入る光は、薄桃色だった。
夕方にはまだ早いのに、雲が赤みを帯びている。

ルシアンは束を手にしたまま言った。

「王妃陛下」

その呼び名に、ナナリエは目を伏せた。

「ここには誰もいないわ」

「だからこそです」

「だからこそ?」

「名を呼んではいけない」

胸の奥が痛んだ。

ナナリエは押し花に視線を戻す。

「呼ばなければ、消えるの?」

「消えません」

「なら、呼んで」

「できません」

「王のため?」

「王のためでもあり」

彼は言葉を切った。

ナナリエは顔を上げた。

「あり?」

ルシアンの目は静かだった。

けれど、その静けさの底で、何かが確かに燃えていた。

「あなたのためです」

ナナリエは笑った。

けれど、それは明るい笑いではなかった。

「ずるいわ」

「はい」

「そんなふうに言えば、私は責められない」

「責めてください」

「嫌よ」

「なぜ」

「責めたら、あなたが私を守っていることになってしまうから」

ルシアンは黙った。

ナナリエは、赤い花弁を紙の上に置き直した。

指先が震えている。

「あなたはいつも、正しい場所に立とうとするのね」

「立ててはいません」

「立っているわ。少なくとも、私よりずっと」

「いいえ」

ルシアンは低く言った。

「私は、あの夜から一歩も動けていません」

ナナリエの指から、花弁が落ちた。

薄い赤が、白い机の上に伏せる。

「……動けていない?」

「はい」

ルシアンは、薬草の束を棚へ戻した。

「王に仕えています。命令も果たしています。剣も握れます。けれど、心だけが、あの船に残っている」

ナナリエは息を止めた。

「言わないで」

「はい」

「今さら、言わないで」

「申し訳ありません」

「謝らないで」

声が少し強くなった。

その強さに、自分で驚く。

ナナリエは立ち上がった。

「あなたは何も言わない方がずっと残酷よ。王妃陛下と呼んで、礼をして、目を伏せて。まるで私だけが、あの夜に取り残されているみたいに」

ルシアンは動かなかった。

「違います」

「何が」

「私もいます」

その言葉は、静かだった。

あまりに静かで、逃げ場がなかった。

ナナリエは目を伏せる。

薬草の匂いが濃い。

甘く、苦く、息苦しい。

「なら、どうして」

声が震えた。

「どうして、私を呼ばないの」

ルシアンは答えなかった。

答えられないのだと、ナナリエにはわかった。

彼がナナリエの名を呼ぶことは、杯の縁にもう一度唇を重ねることと同じだった。

始まってしまう。

もう、誰にも止められないものが。

ナナリエは机の上の押し花を見た。

赤い花弁。
黒い芯。
薄い紙に挟まれ、形を残したまま乾いていく花。

「私たち、こうなるのかしら」

ルシアンが視線を落とす。

「花のことですか」

「ええ」

ナナリエは花弁を指でなぞった。

「色だけ残して、息をしないものになるのかしら」

「それが正しいのなら」

「正しければ、あなたはそれでいいの?」

ルシアンはすぐには答えなかった。

長い沈黙のあとで、彼は言った。

「よくありません」

その一言で、ナナリエの中の何かが崩れた。

正しくない。
よくない。
わかっている。

それでも、その言葉が欲しかった。

欲しくてたまらなかった。

「ルシアン」

名を呼んだ瞬間、彼の目が揺れた。

「王妃陛下」

「違う」

「ナナリエ様」

「様もいらない」

彼は目を閉じた。

苦しげに。

「それは、できません」

「なぜ」

「一度呼べば、私はもう」

言葉が途切れる。

ナナリエは彼に近づいた。

一歩。

薬草の束が揺れる。

もう一歩。

ルシアンは逃げなかった。

ただ、息だけが少し乱れた。

ナナリエは彼の前に立った。

指先を伸ばす。

触れない。

触れないまま、彼の外套の端を見た。

そこにはもう、赤い花弁はなかった。

「あの花弁」

ナナリエは言った。

「捨てたの?」

「いいえ」

「では」

「聖書に挟みました」

予想していなかった答えに、ナナリエは彼を見上げた。

「なぜ」

「捨てられなかった」

その言葉は、直接触れるよりも熱かった。

ナナリエの胸が痛む。

「馬鹿な人」

「はい」

「そんなもの、持っていてはいけないのに」

「わかっています」

「わかっていて?」

「持っています」

ナナリエは小さく息を吐いた。

この人は、正しいふりをしている。

でも本当は、誰よりも深く罪を抱いている。

それを知ってしまうことが、たまらなく甘い。

「私も」

ナナリエは言った。

「杯の底に沈んだ花弁を、捨てられなかった」

ルシアンの指が動いた。

ほんの少し。

ナナリエはそれを見た。

「乾かしてあるの。この部屋の奥に」

「なぜ」

「あなたと同じ」

「捨てられなかった」

「ええ」

二人は見つめ合った。

薬草室の薄桃色の光が、少しずつ赤くなっていく。

夕暮れが近づいている。

このまま誰かが来れば、何もなかったように離れられる。
このまま誰も来なければ、何かが起きてしまう。

ナナリエは、そのどちらも怖かった。

「ルシアン」

「はい」

「あなたが王を裏切れないから、私はあなたを愛したの」

言ってしまった。

言葉にしてしまえば、もう戻れない。

けれど、すでに戻れなかった。

ルシアンの顔から、血の気が引いた。

「言わないでください」

「どうして」

「私が、耐えられなくなる」

「耐えていたの?」

「はい」

「私もよ」

その瞬間、ルシアンの手が伸びた。

けれど、ナナリエに触れる直前で止まる。

彼は拳を握った。

「あなたを奪えば」

声が低く震えていた。

「私は、あなたが愛した私ではなくなる」

ナナリエは目を伏せた。

美しい人だと思った。

残酷なほど。

「わかっているわ」

「なら」

「でも、わかっていることと、欲しくないことは違う」

ルシアンの呼吸が乱れる。

ナナリエは、彼の拳に自分の指を重ねた。

今度は、自分から触れた。

彼の手は熱かった。

触れた瞬間、薬草室の匂いが遠くなる。

赤い光。
指の熱。
言葉にならない息。

それだけになる。

「今夜だけ」

ナナリエは囁いた。

「何も守らないで」

ルシアンは首を振った。

「できません」

「では」

彼女は目を上げた。

「せめて、私の名を呼んで」

長い沈黙。

世界が、その一音を待っているようだった。

窓の外で、鳥が鳴く。
城のどこかで鐘が鳴る。
それでも薬草室の中だけは、夜の船に戻ったように静かだった。

ルシアンの手が、ナナリエの指を包んだ。

強くはない。

逃げられるくらいの力。

けれど、逃げたくないと思わせる力。

彼はゆっくりと息を吸った。

「ナナリエ」

その声で、彼女の中の花がほどけた。

赤い花弁が、胸の奥から一枚ずつ落ちていく。

「もう一度」

「ナナリエ」

「もう一度」

「ナナリエ」

三度目の名は、祈りではなかった。

赦しでもなかった。

ただ、二人が同じ毒に沈んでいる証だった。

ナナリエは目を閉じた。

ルシアンの額が、彼女の髪に触れる。

それだけ。

それだけなのに、体の奥まで月が落ちてきたようだった。

唇は触れなかった。

抱きしめもしなかった。

けれど、その夜より深く触れてしまった気がした。

誰にも見えない場所で。
誰にも裁けない形で。

名前が、二人を結んでいた。

やがて廊下の向こうから、足音が聞こえた。

ルシアンはすぐに離れた。

ナナリエも、一歩下がる。

それだけで、冷たい空気が戻ってくる。

扉の外で、ブランシュの声がした。

「王妃様、おられますか」

ナナリエは返事をする前に、ルシアンを見た。

彼はすでに騎士の顔に戻っていた。

残酷なほど整った顔。

ナナリエは、赤い押し花を一枚、机の上から取り上げた。

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