明るくも振る舞わなかった。
ただ、息をした。
初めて、自分のために。
「ルシアン」
彼女も名を呼んだ。
その瞬間、二人の間にあった正しさが、音もなくほどけた。
触れたのは指先だけだった。
けれど、もう戻れないところまで触れてしまった。
波が船を揺らす。
月明かりが、二人の影をひとつに滲ませる。
祈りに似ていた。
けれど、祈りではなかった。
毒は、甘かった。
甘いからこそ、吐き出せなかった。
夜の終わりに、銀の杯は空になった。
赤いアネモネの花弁だけが、底に沈んでいた。
ナナリエはそれを見つめた。
浮かんでいたはずの花弁が、いつのまにか沈んでいる。
まるで自分の心のようだと思った。
ルシアンは何も言わない。
ただ、ナナリエの手を離さなかった。
夜明け前の海は、少しだけ青い。
その青の中で、ナナリエは知った。
恋は、誰かを明るくするものではなかった。
少なくとも、今夜の恋は。
それは、胸の奥に隠していた黒い芯へ、甘い火を灯すものだった。
消えない火。
消してはいけない火。
そして、いつか二人を焼いてしまう火だった。
第三章 王妃の白
朝が来た。
夜の海をすべて洗い流すような、白い朝だった。
港には鐘が鳴っていた。
遠くの城壁には旗が揺れ、人々の声が波のように押し寄せてくる。
ナナリエは船室の鏡の前に座っていた。
ブランシュが髪を結い直している。
赤いアネモネは、もう半分ほど花弁を失っていた。
それでもブランシュは、それを捨てようとはしなかった。
「新しい花に替えましょうか」
そう尋ねたあとで、彼女はすぐに口をつぐんだ。
ナナリエが、鏡越しに花を見つめていたからだ。
「いいえ」
ナナリエは言った。
「これでいいわ」
「けれど、少し傷んでいます」
「傷んでいるくらいが、今の私には似合うもの」
ブランシュの手が止まった。
「姫様」
「冗談よ」
ナナリエは明るく言った。
けれど、自分でもわかった。
それは少しだけ、遅れた明るさだった。
昨夜までなら、もっと軽く言えた。
誰かの不安をほどくために、もっと上手く笑えた。
でも今朝のナナリエの中には、別の音がある。
ルシアンの声。
ナナリエ。
たった四音。
それだけで、彼女の内側は昨夜からずっと濡れている。
杯は空になった。
毒は飲み干した。
赤い花弁は底に沈んだ。
そして夜明け前、二人は何も言わずに別れた。
唇を重ねたわけではない。
抱き合ったわけでもない。
けれどナナリエは知っていた。
指先だけで、人は戻れなくなる。
名前だけで、心は裸になる。
「お顔色が悪いです」
ブランシュが小さく言った。
「眠れなかったの」
「薬草酒をお飲みになりましたか」
ナナリエは答えなかった。
それだけで、ブランシュは察した。
鏡の中で、侍女の顔から血の気が引いていく。
「姫様」
「大丈夫」
「何を」
「何も起きていないわ」
言いながら、ナナリエは自分の声が嘘を知っていることに気づいた。
何も起きていない。
確かに、誰にも咎められるようなことは起きていない。
けれど、もうすべてが変わっていた。
部屋の外から、迎えの声が聞こえる。
王の使者が来たのだ。
ブランシュは震える手で、最後の髪飾りを整えた。
白いヴェールがナナリエの肩へ落ちる。
花嫁の白。
王妃になる女の白。
その白が、今朝のナナリエには少し眩しすぎた。
「行きましょう」
彼女は立ち上がった。
船を降りる時、ルシアンは桟橋の横に立っていた。
王の騎士として。
黒い外套を着て、背筋を正し、誰の目にも揺らいでいないように見えた。
ナナリエは彼を見る。
ルシアンも、ほんの一瞬だけ視線を上げた。
それだけだった。
名は呼ばない。
昨日の夜などなかったように。
けれど、彼の外套の端に、小さな赤が残っているのが見えた。
アネモネの花弁。
昨夜、彼の外套に落ちた一枚。
ナナリエは息を止めた。
ルシアンはそれに気づいていないのか、あるいは気づいていてそのままにしているのか。
わからなかった。
わからないことが、こんなにも甘い。
桟橋の先で、マティアス王が待っていた。
穏やかな人だった。
金色ではなく、蜂蜜を薄く溶かしたような髪。
声は低すぎず、柔らかい。
目は人を急がせない。
ナナリエが膝を折る前に、マティアスは一歩近づいた。
「長い船旅だったでしょう」
最初に言われたのは、国の話でも、婚礼の話でもなかった。
体を気遣う言葉だった。
ナナリエは少し驚いた。
「海が少し、拗ねておりました」
いつものように、軽く返す。
マティアスは穏やかに笑った。
「それは困った。だが、あなたを無事に連れてきてくれたのなら、あとで海にも礼を言わねば」
優しい人だと思った。
だから、胸が痛んだ。
この人は、ナナリエを傷つけないだろう。
無理に奪わない。
急かさない。
声を荒げない。
だからこそ、ナナリエはこの人を傷つけるのだと思った。
まだ何もしていないのに。
もう、裏切っている。
婚礼は、その日の夕暮れに行われた。
礼拝堂の窓には、赤と薄桃の硝子が嵌められていた。
光が差すたび、床に花弁のような色が落ちる。
ナナリエは白い衣を着て、マティアスの隣に立った。
王の手は温かかった。
彼女の指を包む手は、強すぎず、弱すぎない。
約束を結ぶための手だった。
ふいに、昨夜のルシアンの指を思い出す。
止めるための手。
離せなかった手。
罪の縁に一緒に触れた手。
ナナリエはまぶたを伏せた。
祈りの言葉が、遠く聞こえる。
神の前で交わす誓い。
民の前で結ばれる婚姻。
誰もが祝福する正しさ。
その中心で、ナナリエの胸には甘い毒が回っていた。
薬草酒の味はもう舌には残っていない。
けれど、体のどこか深い場所が、まだその甘さを覚えている。
誓いの杯が差し出された。
本来なら、昨夜の薬草酒はこの杯の前に飲むべきものだった。
王と王妃が、心を結ぶために。
マティアスは何も知らない。
ナナリエは杯を受け取り、王と分け合った。
葡萄酒は清らかな味がした。
正しい味だった。
けれど、甘くはなかった。
ナナリエはゆっくりと飲み込む。
喉を通ったのは、祝福ではなく、白い嘘だった。
式の後、広間には灯りが満ちた。
楽師が弦を鳴らし、人々が新しい王妃を讃えた。
ナナリエは明るく振る舞った。
赤いアネモネのように。
白い衣の胸元に、最後の花を一輪だけ挿して。
誰かが話しかければ、笑って返す。
子どもが花を差し出せば、膝を折って受け取る。
老いた貴族が涙ぐめば、手を添えて礼を言う。
彼女が笑うたび、人々は安心した。
新しい王妃は、可愛らしく、朗らかで、強い。
きっとこの国に明るい風を運んでくれる。
そういう目で見られていることが、ナナリエにはわかった。
だから彼女は、より明るく咲いた。
咲けば咲くほど、奥の黒い芯が熱を持つ。
広間の端に、ルシアンがいた。
王の背後ではなく、少し離れた柱のそば。
騎士たちの列の中で、静かに立っている。
彼は一度もナナリエに近づかなかった。
一度も名を呼ばなかった。
けれど、見ていないふりをする横顔が、彼女には一番残酷だった。
音楽が変わる。
マティアスが手を差し出した。
「一曲、よろしいですか」
王妃として断る理由はなかった。
ナナリエはその手を取る。
広間の中央へ出る。
人々が道を空け、拍手が波のように広がった。
マティアスの踊りは穏やかだった。
急がない。
強く引かない。
ナナリエの歩幅を確かめながら、回る。
「疲れてはいませんか」
彼は小さく尋ねた。
「少しだけ」
ナナリエは正直に答えた。
「では、これで最後にしましょう」
「王妃が最初の夜から疲れた顔をしていたら、皆が心配します」
「心配されてもよいのです」
その言葉に、ナナリエは一瞬、足を止めそうになった。
心配されてもよい。
ルシアンの言葉と、少し似ていた。
咲かなくても、ここにおられます。
けれど違う。
マティアスの優しさは、日向のようだった。
静かで、温かく、傷口を隠してくれる。
ルシアンの言葉は、月の光だった。
隠していた傷口を、白く照らしてしまう。
どちらも優しい。
だから、苦しい。
曲が終わる。
マティアスはナナリエの手を放した。
その手の温もりは、穏やかだった。
ナナリエは礼をして、顔を上げる。
その瞬間、柱のそばにいたルシアンと目が合った。
ほんの一瞬。
けれどその一瞬に、昨夜の杯があった。
月があった。
赤い花弁があった。
ルシアンは先に目を伏せた。
ナナリエは胸の奥で、何かが沈む音を聞いた。
夜更け、祝宴が終わる。
王妃の部屋へ案内されたナナリエは、白い衣のまま窓辺に立った。
遠くに港が見える。
船は、まだそこにあった。
月の下で、黒い影のように揺れている。
ブランシュが背後で声を落とす。
「姫様」
「もう姫ではないわ」
「では、王妃様」
その呼び方に、ナナリエの胸が小さく痛んだ。
王妃。
マティアスの妻。
この国の白い花。
皆を安心させるために咲くもの。
「お休みください」
ブランシュが言う。
「眠れないの」
「薬草酒は、もうありません」
その言葉に、ナナリエは振り返った。
ブランシュの目には、恐れがあった。
責めてはいない。
ただ、守りたい人の目だった。
ナナリエは小さく笑った。
「わかっている」
「本当に?」
「ええ」
嘘だった。
わかってなどいない。
毒は、もう杯の中にはない。
ナナリエの中にある。
どれほど水を飲んでも、祈っても、眠ろうとしても、消えない。
窓の外で、月が雲に隠れる。
部屋が少し暗くなる。
その暗さの中で、ナナリエは胸元のアネモネに触れた。
花弁は、残り少ない。
けれど黒い芯だけは、まだ濃く、まだ熱い。
その夜、ナナリエは夢を見た。
月の舟が、岸に繋がれている夢だった。
舟には誰も乗っていない。
けれど銀の杯だけが置かれている。
底には、赤い花弁が一枚。
ナナリエがそれに手を伸ばすと、背後から声がした。
「ナナリエ」
振り返っても、誰もいない。
ただ海だけがある。
白く、甘く、深い海。
目が覚めた時、朝はまだ遠かった。
ナナリエは自分の手を見た。